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アジアの楽園Sundalandを考える上で、初期の現生人類が海浜・河川へ展開して行ったことは重要です。

私は、そもそも出アフリカを果たした千人内外の部族は、チンパンジーや他人類と異なり、水産物を食し海・水に抵抗ない特質を有する人たちであっただろうと考えています。

進出展開の縮

私たちの体に残る痕跡から、相当長い期間にわたって”水に馴染んだ新人類種”で、その準備があって出アフリカが果たされたものだと思います。

さて、当国の独立記念行事の一環として、ジョコ大統領ご夫妻も出席されて8月22日、海川の観光開発など経済活性化のための赤道祭りが賑やかに行われました。

ボルネオ島カリマンタンKalimantan西州でのパレードでは、5kmを移動しつつ進んでいく船を型どった甲板檀上から海の民の政策を唱えられる大統領が歓呼の声に応えられました。

国会議長、州知事、マレーシア、ブルネイのほか当国24州約4,000人の代表が参加し、50団体が踊りを披露しました。

赤道祭りKOMPAS8.23縮

また、約150隻の舟が参加し、海の民の祭りを盛り上げました。

赤道祭り多い舟syuku

(上記2枚 8.23付KOMPAS紙から)

万年の昔から、その恵まれた風土と産物を基礎に、多くの人が舟purahuで漕ぎ出し、船でこの地に渡り来たり、船で交易を行い、海から食を得、葬送するなど海とともに生きてきた人たちbangsa lautです。

舟国立博縮 スラウェシ舟家

洞窟壁画の舟(インドネシア博物館)          スラウェシ州の家

そのknow-howは口伝えで、技を見ることで相伝され、木・竹を使った舟は残らず、寄港地の根拠も今は周囲に溶け込んで分かりません。

しかし、各地に残る古い巨石遺跡や語り継がれている内容の類似性などから、大昔の人たちの多くの舟が行き交うことによる海洋での広範囲の行動力、交流は私たちの想像を越えるものであったと考えています。

さて、問題の人類史最初の大悲劇に入ります。

300万年前頃から15回くらいあった氷河期Zaman Gletserの最終氷期は7万年前頃からで、北極・南極から発達した氷河は北半球では北欧、シベリア、北米北部を覆い寒冷と乾燥はその南部にも及びました。

海の水はこの氷になり、海水面は今よりも約130m低下し、広大なアジアの楽園Sundalandが半島大陸地として現れていました。

この地は赤道付近であったため、2万年前頃の最寒LGM期にも1.4~1.15万年前頃の寒戻りヤンガー・ドリアスYD期にも恵まれた気候状況でした。

前回報告しましたように、動植物も正に多種多様で食料が豊富、火山帯のため黒曜石などの貴重な鉱物も豊富にありました。金、錫、などは世界的に有名でした。今、一番は石油です。

花1syuku 花2 syuku

悲劇となった大洪水の原因は、彗星や隕石meteoriteの衝突による急激な温暖化か、貯っていた北米の氷水の溢れ出しかなどと言われています。

火山の噴火もあったようで、地震・津波も考えられる正に激動の時期であったようです。

ヒマラヤHimalayaの雪氷も融け、あのシルクロードのタリム盆地Tarim Basinを水で潤し、いくつものアジアの大河は水量を増しあるいは流れを変え、大きな影響があったものと考えられます。

ともかく、楽園Sundalandのかなりの部分が海没し、大型の哺乳動物のマンモスmammothやトナカイが絶滅している激変は事実です。

このYD期間が終わり温暖化が始まった11,500年前頃というのは、地質学的には、更新世(後期)と完新世の変わり目であり、史的には、旧石器時代から新石器時代へと移り変わっていった人類史上の節目の大変重要な時代です。

注:現在の一般的な認識では下記ですが、(トルコ)ギョベクリ・テペGobekli Tepe遺跡、(英)ストーン・ヘンジStone Henge遺跡などの状況から、石器人はもっと進んでいたのではと考えられてきています。

・旧石器時代Paleolithic・・・ 打製石器や骨角器を使って狩りや採集、漁労を行い、移動しながら生活していた時代

・新石器時代Neolithic・・・ 打製石器に加えて磨製石器を使用するようになり、また、定住生活をし、農耕や牧畜によって食料の生産をするようになった時代

長年にわたる故Prof.Arysio SantosやProf.Stephen Oppenheimerの研究により、楽園が、父母祖の地が、大昔に海没した、大洪水banjirにより海没したという同工異曲の語り伝えは、広く根強く印亜大陸、中東地域の諸族のほか、北欧や太平洋諸島などにもあることが分かっています。

そして、沈みゆく地から生きのび離れた多くの人たちが、ノアNuhの方舟伝説のように新たな地へと向かったことでしょう。

舟perahuに家財道具を積み、それまでに培った信仰や生活のknow-how、何よりも恐ろしかった経験談、また、太陽が昇る地、楽園での良かった時代の話なども携えて。

無論、大悲劇が鎮まってから楽園を訪れた人たちは、その変わり果てた状況に驚き、様子を伝えたことでしょう。

ともかく、今に繋がる現生人類の少部族は、数万年前にアフリカを出てout of  Africa、気候の変動の中、楽園に至りました。

そこでは寒冷乾燥の氷河期にも風土が恵まれていたことから、東西南北の多くの人々が集まり、出入りし、生活の文化cultureを育み続けられたものと考えられます。

この地で何(十)万人もの人が生活し、この文明Civilizationの始まりと言える人間としての豊かな社会が在りました。

突然とも言える海没化は、その影響も踏まえ、世界人類史World historyにおける最初の大悲劇Big tragedy eventと考える所以です。

楽園の事実は、西ジャワの巨石遺跡グヌン・パダンGunung Padangの古さについての内部調査などにより更に明らかになると考えています。

下図の赤い部分は、地中から垂直に吹きあがった溶岩が前方に流れ固まったものです。遺跡はその上部に年代を異にして3層以上造られたもので、1万年前以上の昔から造られたものとみられています。

(参考)Lapisan層 THN Lalu年前 Lava溶岩 Tufa凝灰岩 Muka tanah地表面

GP構造syuku

またこの点で、知の殿堂と言われたエジプトMesirの神官の話として、あのギリシャの哲人プラトンPlatoが、楽園に関係すると考えられる内容を対話編Dialogueで記述しています。

話の該当の場所については、象などその具体的な動植物等の記述内容から、赤道付近の熱帯tropicalに違いないと研究者たちの見方が一致しています。

話の時期は、神官やプラトンが全く直接的に知る由もない、彼らにとって9,000年前という遙か大昔のことです。

にも拘わらず、その時期の陸地の海没話の状況と各地の語り伝えがぴったり現代地質学等の認識に一致しています。

このことも驚きであり、土地の様子や海没話を単なる想像ではとても書きえないことで、交易・交流の広域さと先人の語り伝えの凄さが注目されます。

因みに、各地の海没した大陸地話で現代地質学Geologyによって裏付けられているのは、全世界でonlyアジアの楽園Sundalandだけです。

以上、当時の人々にとって日が昇る、沈むことの重要さを加え、大悲劇の頃をまとめてみました。日出ずる楽園であることが分かります。遠東、Far East です。

人類史上最初の大悲劇(日本語)

(PDFファイルのダウンロード)

現代の教科書は、この大悲劇のずっと後(数千年)、多くの人々がユーラシア大陸から台湾Taiwanルート、内陸マレーMaleysiaルートで当地に大挙南下移住したことから書き始めていますが。

他方、この温暖化による大変化は、それまで寒冷あるいは乾燥砂漠であった所に水と木々や動植物をもたらしました。

そしてやがて、中東のメソポタミアMesopotamiaなど教科書にある文明を登場させることになって行きます。

なお、左下のインドネシア語は、アジア・アフリカ会議KAA60周年記念ではなく、ゼロを3つ加えた60,000年記念ですよと当地の人にエールを送ったものです。

更に、赤道祭りKhaturistiwa Karnavalは、遙か大昔の悲劇の楽園のご先祖様nenek moyangを偲ぶものでもあるのですよと言いたいです。

さて、歴史にやや埋もれてあまり注目されていませんが、私には何とも興味深いDravida Tamilについて回を改めて報告いたします。

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アジアの楽園Sundalandの探訪も暑い夏の8月は、当国含めて近現代史になりましたが、また、先史に戻ります。

先般シンガポールで、専門家1年生向けという考古学の良い教科書を入手しました。こういう本を一般書店に置いているところが流石のシンガポールです。

当国1、2の名門のバンドゥン大学は、工科大ですが流石に旧版は所蔵していてかねていい内容だと思っていました。

最新第6版は、考古学関連全分野をカバーして新たな内容を相当増補しているほか、カラー写真となり、かつ、量も広範多岐にわたり多く、世界をリードする英国らしい素晴らしいものです。

テキストsyuku

特に、考古学は単に事実の記述に留まらず、事実の歴史的な意味合いを 「説明」Explanationすることだとする、New Archaeologyを標榜しています。

それに関する諸説の変遷、今の議論の最前線の内容が図解、図表等とともに充実している正に「考古」のテキストです。

無論、地道な発掘等の内容は、近年の種々の機材も含めて方法論としての基本が十分記述されています。

また、総合的な発掘プロジェクトの事例も意義とともにその実情が多数紹介されています。

先日紹介しました「氷河期以後」After the Iceは、正にこの考古「説明」の流れの先端を行く、コンピューターを駆使した科学的な方法に基づくもので、著者もこの教科書に採りあげられています。

そして、日本では考えられませんが、私が拙著(アジアの楽園探訪記)で「石器人に対する認識を大きく変えた。」と紹介しました驚きのトルコ東南のギョベクリ・テペGobekli・Tepe遺跡が、早速入っています。

教科書のGT

万年頃・万年を越える人類先史の焦点と考える時期について充実していますので、私には素晴らしい選手たちのサッカー・ワールドカップを真近の席で観戦している気分です。

但し、欧米中心と成りがちなためのみならず、実証が不十分とみているのでしょうか、東南アジアは少なく、アジアが全般に少ないのは残念ですが。やはりあちら系のワールドカップに出るのは大変なのでしょう。

さて、現生人類がアフリカを出てからの中東、アジアは世界先史の中心的な意義を有し大変重要だと考えています。

地球規模の気候の最終氷期最寒冷期LGM(2万年前頃)と寒戻りYD期(1.3~1.1万年前頃)には、欧州の殆どの地域は人が住めない状況でしたが、赤道地域のアジアの楽園スンダランドは、一貫して恵まれた条件にありました。

人類進出縮

また、英国の誇るストーン・ヘンジStone hengeなどの欧州巨石遺跡(地中海地域の物より古い)が、何故か大西洋岸に偏っているのはどこから?という謎。

遠いマダガスカルMadagascarに何故、楽園地域の人の末裔がいるのか?

遠く離れたドラヴィダ・タミルTamil語が、日本語に共通する言葉が多く近いと言われるのは何故か? 何故、中国、沿海州など近い大陸の言葉でないのか?

などは、早い時期の海のルートの伝搬を考える必要があると思いますが、テキストには記述されていません。

海川伝播syuku

当地に住んで動いてますと、軽易に乗り降りできるミニバス、隣の県への大型バス、隣の州への長距離夜間バスなど独特の運輸様式とバス停留所があり、休暇の帰省を川上に上がると表現するなど万年の舟人、海の民の優れた交易行動力から理解できます。

各地に舟着き場、租界があったと思いますが、木・竹の施設や船は残らないですし、租界もその後の陸勢力に溶け込んだのでしょう。巨石構造物は残り、人や言葉は端や島(陸の孤島含む)に残ると言えます。

教科書も認めている通り、東南アジア熱帯地帯は、遺骨・遺物が残りにくいですので、楽園スンダランドの巨石遺跡グヌン・パダンは、地中に時代を異にする3層以上を有する大変古いもので注目されます。

GP写真縮

当地でも認識されてきていて、書店に並んでいます。

本屋noGP

また、11月、英国ロンドンで、先史遺跡についての公開会議が行われますが、前述のギョベクリ・テペなどとともに当地グヌン・パダンもテーマの一つです。

Nara Akiraさんの写真
 万年を越える先史遺跡が続々と声を上げてきています。
 いつの日か、アジアの楽園の万年の遺跡が、先史ワールドカップに出場してアジアの意義が認識されることを期待していますし、この面で日本が地域を支援できれば大変良い国際協力になると考えています。
 今日は、中央から文化大臣ご臨席のもと、当国文学の第1人者Ajipさんとともに、文学及び母国語と地域の文化の継承を大切にするスンダロギーの文学賞授与イベントが、西ジャワ州都バンドゥンでありました。
 西ジャワ州知事さん、西ジャワ言葉(親善)大使(優勝者女史)にご挨拶し、研究のことなど自己紹介する機会を得ました。大使は、来月、東京と京都に行かれるそうです。
 作家縮
イベントsyuku
州知事syuku
言葉大使syuku

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I want to make comments about that, is based on chart of Great Journey of Homo Sapience as below, though I’ve got the news in far away island Java by private e-mail on Book Review of some Japanese News Paper .
人類の進出
1. It’s written about history of homo sapience from 20,000-5,000 BC .
   It’s amazing for me because the theme and the duration are the same as mine and written by a specialist professor on history  has written, not by an amateur as I initially handed over e-book draft of my idea on that theme to e-publisher in June last year.
2. Prof. Mithen wrote on begining of agricuture, but should pay attention to the point that no ice age existed in warm Sundaland and banana is very old selected breed by homo sapience.
3. Yes. In that period, Human Civilization took off far before Mesopotamia though it depends on diffinition of civilization. I’m interested in human characteristic society of large enough, long enough period one which was fully different from that of monkey and ape. When, where and what society was our origin ?
4. Prof. Mithen should study more on Sundaland as he visited almost all over the continents area. He should pay more attention  on it as an important region of Human Great Journey.
5. Yes. Now, we have to think about what human beings are, what human society, civilization should be. People in modern society has to  know about Out of Africa, era of Sundaland “civilization”.
6. Methodology is good. We should study not only from contemporary situation to the past, but from origin of Africa, Great Journey to now.
7. Yes. Results of historical excavation is Evidence. So, I’m interested in Gunung Padang and under water situation in Bay of Thailand.
8. Prof. Mithen has orchestrated many fields of science and picturised initial Human civilization. And it should also be mentioned on analysis of Nenkou, DNA, high-tec electro magnetic survey etc.
9. One Book Review express its greatness as a fine music on Creation of World. But, I think it’s too much. In creation of world, Adam and Eve are black Africans though I don’t know how ordinary Wetern People feel to it. As like they’d got out from the garden of Eden, homo sapience got out of Africa and prevailed to the world.
Now, we should face up to relity of ancient prehistory for one of main issues of ineternational society, humanism.
10. Prof. Mithen touched upon little about Sundaland. It’s a pity, really.
By the way, it’s said by some in study community in Japan that this theme should be discussed not in University but by Rekishinia(retired ordinary seniors who are interested in history) in salon.
But, it’s delightful for me that a  University historian of UK, leading level in the field of history, has finalised contents by scientific method.
I hope more progress will be achieved in this theme near future.
http://www.sunda-wind.net
私のアジアの楽園Sundaland、グヌン・パダン巨石遺跡の研究(「アジアの楽園探訪記」http://www.sunda-wind.net)に関連して、驚きの大著「氷河期以後」After the Iceが、英オックスフォード・リーディング大スティーヴン・マイズン教授により書かれました。
著者は世界各地を訪れてますが、残念ながら東南アジアを研究訪問しておらず、また、世界をリードしている英国歴史学界には、このテーマで注目すべき研究もありますが反映されていないようで遺憾に思っています。
新聞書評等の風の頼りから、以下、人類のグレート・ジャーニーを基にする私の赤道を越えた島からの所見を述べます。
人類の進出
1.紀元前2万年から同5,000年に的を絞っての人類史ということです。
テーマの問題意識、先史の対象時期が私と一緒の歴史専門家が俯瞰した学術研究であり、実に驚くほかないです(私は昨年6月から、原稿「アジアの楽園探訪記」を出版社e-ブックランドと調整開始)。
2.氷河期が終わって地球が温暖化する中で、農耕が始まりという記述のようです。
寒戻りのヤンガー・ドリアス(YD)期(1.3-1.15万年前)後ということかもしれませんが、アジアの楽園Sundalandには、欧州などのような氷河期は無いです。バナナの改良から栽培・農耕は始まっています。
3.今に続く文明の基礎ができた時期とのことで、その通りでありメソポタミアのずっと前です。文明の定義によりますが。私は、サル社会と全く異なる特質を有する規模の大きな、期間も長い、文明と呼べる始源の人間社会は、いつごろ、どこか、どんなものかという今に繋がる原点、源流を追っています。
4.西アジア、ヨーロッパ、アメリカ大陸、オーストラリア大陸、
東アジア、南アジア、アフリカ大陸を巡って記述しているようですが、ものの見事に、最重要のアジアの楽園Sundalandを外しています。
5.結論的に考えさせられるのは、人間とは何か、文明とは何かということだそうですが、その通りであり更に全ての現代人は、温故知新、出現のアフリカ、「文明」を生み出したアジアの楽園時代に思いをいたすべきでしょう。
6.現代からの類推で過去を復元するのではなくということのようですが、良いですね。私は前掲のとおり、アフリカの始源から復元を図る考察に努めています。
7.発掘成果はその証拠として働くことはその通りで、私もグヌン・パダン巨石遺跡、タイ湾海下の運河・灌漑遺構の状などを追っています。
8.人類学、古気候学、動物学、植物学、堆積学など、過去に向き合う諸学問が統合され、一霊長類に過ぎなかったヒトが「文明」を生み出したことを明らかにした。
という点はその通りです。近年の年縞分析、DNA分析、電磁気調査などの重要さも書くべきでしょう。
9.天地創造の楽曲を奏でるような大良著ということらしいですが、言い過ぎでしょう。一般の欧州人の受け止めはどうかですが、アフリカの黒人が新人類の始まり、言わば天地創造のアダムとイブです。エデンの園から追放されたかのごとく、前掲のとおりやがてアフリカを出て世界に拡がりました。
 そして、イエス・キリストやマリア様を今描くなら、皮膚の色は褐色にすべきでしょう。そうすれば、国際社会の最重要課題の一つである真のヒューマニズムが生まれるものと考えます。
 また、自分たちの遠い祖先に最もよく似た人たちを奴隷にし売買したことが、その後の特に欧米白色人の人たちが背負っていく「人間仲間内の原罪」と言えるでしょう。
10.アジアの楽園Sundalandについての記述は、極めて不十分なようです。
 いずれにしても、「歴史ニア」のお遊びと言われた先史のこの時代、始源の文明研究が、世界をリードする英国の大学の歴史専門家によって科学的になされ公にされたことは、誠に喜ばしく今後の更なる解明に期待が持てます。

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位置としては、アジアの楽園Sundalandの中央になりますシンガポールに行きました。modernでcleanで花々もきれいで豊かな現代の楽園でしょう。

建国50年を祝う賑やかさの中にライオン(シンガ)と大きな船、水に親しむ海の民を見ました。そして、19歳で全員例外なく2年兵役につき、その後もずっと練度維持を図って楽園を守り維持します。(スイスの例を出して恥かいた先生にこの例も教えたいです。唱えるだけでは楽園は守れません。)地下鉄規律でもしっかりです。そして、何より戦略的思考のお手本と言うべき国と思われます。

マーライオン

海の民

海の子

徴兵

規律

さて、万年ハンターの本題です。残念ながら、まだ当地の視野は国立博物館では700年前でしたが。

当地の第4公用語はタミル語です。イギリスがプランテーション労働力としてインド亜大陸南部から連れてきた人たちですが、あのインダス川岸のモヘンジョ・ダロを築いたドラヴィダ人Dravidian系でその寺院の台型造形の基礎は、既に報告のスクー寺院、マヤピラミッドに似ています。

国立博

700年

タミル寺院

遙か大昔に海に沈んだ(Sundaland?)栄光の民の末裔神話を大事にしているだけでなく、新人類の出アフリカ後の東進・北上ルートの始まりの方の人たちで私は注目しています。

更に、大家の大野 晋先生によれば、世界で日本語に最も近いのはタミルTamilの人たちの言葉で多くの単語が取り入れられているとのことです。先生は、真珠交易などの諸点も挙げられて説明されていますが、両者があまりに離れていることもあり学界では未だ、?の謎です。

しかし、あんなに近い大陸の言葉と日本語、心根が違う方がむしろ不思議と思わねばならないでしょう。

アジアの楽園Sundalandと人類の東進・北上の海ルートを理解する私には、西と北の言わばはずれに残った2つの言葉が近いのは不思議でも謎でもありません。交易で栄えていたタミルの人たちは、ルート途中に多くの租界を持っていたのでしょうが、長い間に失われ痕跡も見つけられないということでしょう。

人類の進出

そして、シンガポールにはまだまだ注目すべき点がありますが、次回といたします。

 

 

 

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楽園Sundalandの遺産についてです。スクー寺院は、ラウ山腹にあり世界遺産登録を目指していますが、当国の世界文化遺産4件のうち3件(サンギラン、プランバナン、ボロブドゥール)が中ジャワのジョグジャ周辺に集中しており、他の1件は東のバリ島です。(下図参照)

ジャワの要図

スクー寺院の本殿ピラミッドの様式が、メキシコと中米で栄えたマヤのピラミッドに酷似している不思議さは前回述べました。

当国の研究家Samanthoによれば、スクー寺院(1,360年頃。1,186m)、近くのチュト(1,470年頃。1,400m)、東部のプナタラン(13世紀から1,415年頃まで。450m)のこれらヒンズー系3寺院の本殿及び伽藍内の構築物が、当国の遺跡の中で異質だと言います。

バリ島もヒンズー系ですが、中ジャワのプランバナン寺院のようにコーンアイスクリーム型かあるいは多重塔型で、インドでも見られるものです。

スクー寺院は、伽藍軸線は高山の山頂方向、石積み3段のテラス構造、地域に対する見晴らしの良さなどグヌン・パダン遺跡に通ずる点も見られます。しかし、本殿、彫像などジャワ王宮や地元の石工・木工による様式ではなく、また急造という指摘もあります。

テラスの段

下住民下の住民

そして、他の寺院もそうですが、この3寺院は本殿、あるいは彫像、レリーフにヒンズー・インドでなく、中東やメキシコ・中米のものと類似性があるものが多くみられるのが特徴です。

例えば、スクー寺院の彫像に羽がついてるものがありますが、幸い顔が残っているものがあり、鳥人です。人のようですが、顔は鳥であり、足の指爪も鳥です。また、はっきりしている写真左の彫像の顔も当国の人ではありません。

頸無の鳥鳥の万歳

 

Samanthoによれば、このような鳥人ものは、下の写真の左がスクー寺院、右上がマヤ、右下がユダヤ民族が過越祭の晩餐で読む有名な冊子にみられる鳥の頭を持つ人だそうです。

スクーの万歳

そして、鳥人はメソポタミアのシュメール(Samantho左)、バビロニア(同右)とも共通性があります。

鳥人のメソ 鳥人noバビロニア

他にもいろいろありますが、その一つはアッカンベーで、東ジャワ、バリ島とメキシコ・アズテック文化のものが類似です。

バリnoべろ

アズテックのべろ

日本では、相手をバカにする良くないことですが、チベットでは尊敬を込めた挨拶だということで(2枚舌ではない?)、おそらく上記の写真などは尊敬を込めたものに通ずるものでしょうから広域の話です。

そして、Samanthoは奇妙ともいえる彫像・レリーフの造形の数々、遠隔地でのその類似性から、現生人類が、巨人(鬼)族や類人猿と共存していた時代の記憶を伝えているとしています。

また、それらの寺院等の定説の建設年代とは別に、造形の元になったイメージは当地域発であろうとしています。

スクー寺院など、遠隔の他地域とこのような類似性を有する内容については、現時点では推測も憚られ、やはり「不思議」としか言えません。

更に、私には気になる点があり、次回報告といたします。

 

 

アイヌ―沖縄―台湾高砂族という繋がりの音楽と踊りの催しは、私に現生人類の進出展開の東進・北上ルートを感じさせるものです。

最近の資料から、私が整理しているルートに関する研究チャートは、以下のようなもので以前掲載したものの年代が一部修正されています。

最近、出アフリカについて、エジプト-シナイ半島ルートがでてますことと、アラビア半島南ルートは5万年前と遅くなってますのでその後のスピードは、はっきり西方向と異なっています。

人類の展開9.16syuku

2万年前頃としてますが、最終氷期の最寒冷期(LGM)の寒さとその前後の比較的暖かい時期に北海道への南下や米新大陸への移動が見られます。

また、1万2-3千年頃の寒冷ぶり返し期(YG期)には、特に欧州・シベリア等では、南への大きな人の移動が、直後の暖かくなった時期にはスンダランドの多くの地域が極の氷が融けたことによる海面上昇で海没している点が注目されます。

図では表現されていませんが、進出展開後の複数回の南北の大きな人の移動(欧州では東->西も)の影響は大きく、環境に恵まれて人が集まったスンダランドでの異質な文化の混じり合いが文明開化に繋がっていったものと考えています。

基本的には、戦いの多い、戦いに強い、大型哺乳動物の狩りで暮らした北、西の人たちに比し、東進・北上ルートの人たちは水に馴染み、海浜、河川地域で水産物にも頼り暮らした穏やかハーモニーの人たちというイメージを持っています。

今を考える源流探究のチャートとして、引き続き研究していきます。

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音楽と踊りは、新人類がアフリカから出る時も受け継いできた根源的なものであり、縄文の音楽を再生していただけば、「アジアの楽園」Sundalandからの北展開ルートとして分かり易いなあと夢想しています。

「原初の唱和」ライブ【花綵(はなづな)列島の仲間たちの出会い】
2015年冬、日本の博物館収蔵のタロコ族文物の調査のため日本を訪れていた東冬・侯温(トントン・ホウウェン)を、新横浜オルタ・スペースでの「花綵列島の民が集って」コンサート(1月12日)に招いたのが日本での初演。

彼の歌に触れた聴衆からは「神が降りてきた声だ」「衝撃的」などの賛辞が相次ぎました。

このとき共演したアイヌのパフォーマンスグループ、ヤイレンカの歌に感銘を受けた東冬が、タロコにも同様の集団で歌う歌があり、次回はタロコの集落で歌い交わされてきた歌と踊りを、日本の先住民族であるアイヌの歌舞とともに披露したいと希望したことから、この夏の一連のコンサートが実現することとなりました。

東アジアの東端、花綵列島に位置する日本〜沖縄〜台湾の人々の絆を深めたく思います。(注:主催者の原文のまま)

という催しが大田区の池上實相寺で行われています。

いつか当地の竹楽器アンクルンや竹笛、途中のフィリピン、カンボジア、ベトナムや中国沿岸・南部などからも古い民族音楽が加われば、素晴らしいことと思います。

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「アジアの楽園」Sundalandでは、ここバンドゥン近くのGarut郡など黒曜石は豊富であり、先史時代に使われていました。

黒曜石縮

旧、中、新石器(Sejarah untuk SMA Kelas Ⅹから)

25日付の朝日新聞で、伊豆半島沖の神津島(Kouzushima)で発見されている万年のハイテク石器素材の黒曜石と舟の行き来が、驚きの古い年代(3万8千年前)と報道されています。

朝日黒曜石

楽園では4万年前頃には、今に繋がる新人類のワジャック(Wajak)人が確認されており、海辺の洞窟には手形などの造形が発見され欧州史学界を驚かせています。

ワジャック説明

ワジャック人縮

ワジャック人の歴史(サンギランのジャワ原人博物館から)

人手縮

洞窟に残る手形など(Sejarah untuk SMA Kelas Ⅹから)(最近の豪研究陣による測定結果は、4万年前頃)

長江・黄河文明を築いた人たちや年代が定説より数千年遡るとみられるアメリカ新大陸へ渡った人たちも楽園地域の末裔ですし、万年前の中東と東アジアの関連や黒潮に乗った人々なども、「アジアの楽園」海陸両用の民という補助線を引けば、記者さんにもそれ程の驚きでも謎でもなくなるでしょう。

壁画の舟

洞窟壁画の舟(インドネシア国立博物館)

できれば、グヌン・パダン(Gunung Padang)など当地の遺跡が、お国の超ハイテク機器で更に調べてもらえることを当地の人も期待しています。

Nara Akiraさんの写真

そして、我らが本家の楽園Sundalandの静かな海が、最近騒がしくなっていることにも皆さんの目配りがいただければと思います。

Nara Akiraさんの写真

(Nias,dari masa lalu ke masa depanから)

友達の米人の情報では、米国の科学誌ScienceやNatureに米新大陸への人類の展開について驚きのDNA分析の新研究結果が発表されているようです。

以下、考察です。

1.新大陸へは考えられていたよりもずっと早く、ベーリング陸峡経由
  で23,000年前以降、大きな1回の移住があった。
  後は、彼らの子孫の米国内での拡大の歴史である。

  (この渡峡時期は、同じく北から現生人類が北海道に来たのと同じ
  ころとなる。?)

2.南米、現在のブラジル・アマゾン地域に最初に来た人たちは、スン
  ダランド現在の東西地域(ニューギニア、アンダマン諸島の人た
  ち)とDNA上、最も近い。
  北米、中米、南米西側から移住した人たちではない。

  すなわち、スンダランド地域から北上、長躯ベーリング陸峡を越
  え、直路南下して、現在のブラジル・アマゾン地域に住み着いた。

北海道もさることながら、沖縄・石垣島の新空港工事で発見された大量人骨が、2-2.4万年前頃ということで、同時期であることから大いに注目されます。

日本については、3万年前頃、南から来た人たちが北上して北海道まで至ったものと考えられています。

今回の発見で、万年の先史において、スンダランド地域とアマゾン地域の人たちが直接的に結びついたことが注目されます。

この長距離の北上、東進渡峡、赤道越え南下という驚きのスピードの展開性から、西方への展開も推測されますので。

ラマダン断食月明けのお祝いが週末ということで、休暇状況に入っています。此処では帰省することを川上に帰ると言いますので、万年の国らしいです。が、今では高速道が混むのは、日本と同じです。

活気を呈す一つは、宝石売りです。街にも売ったり、磨いてたり目立ちます。原石の掘り出し物があるかもです。

宝石縮

石磨き

教室では、接頭辞perにmata(目)を付けて宝石permataです。このmata目が、日hariとで太陽matahari、水airを付けて湧く泉mata air(逆は涙)、足とでくるぶしmata kaki、講義とで授業科目mata kuliahなどです。

目mataは、他に生業、釣り針、矢じり、刃、羅針盤方位、最近では核弾頭もある重要単語であるだけでなく、メソポタミア、エジプト、長江などの文明に「目」の強調が共通して観られます。アメリカのドル札にも見られます。

この先史からの伝統を窺わせる言語感覚の「宝石」ですが、此処の人の宝石好きは、指輪(チンチンcin-cinと言います)、ネックレスもわがカミさんが素敵、欲しいと言うのとニュアンスが違います。(ちなみに、恋・愛はcintaで、此処の歌では一番連呼される重要語です。)

「写真、いい?」

「勿論さ。一寸待て、まだあるんで付けるから。」(小バッグから取り出しポーズ)

人と宝石

「そうだ、小指の分もあるから一寸待て、撮り直しだ。」

「いやいや、行かなきゃいけないんで。それで十分、ありがと。」

文化人類学の先生によると、飾りは元々は交易・付き合いによる人脈の豊かさを示すものだそうです。良い品、高価な品、沢山の物は、人脈の良さ、高さ、そして広さを示すという訳です。

ボスザルのように群れの中で優越しているというところから、やがて天、神と語り・願い事できるという知的で精神性のあること、物的な財力を支配している、特に海洋の交易力があるといったことが、人脈の豊かさ、本人の偉大さになったのでしょう。

アメリカ・インディアンなど遠隔の地でも、特に酋長はいろいろ飾りをしてますが、理解できます。

万年のアジアの楽園Sundalandが注目されるのは、その気候風土、食べ物としての動植物のほかに、この貴重な鉱物(ダイヤも!)があります。

宝石は小さく、軽量、その後の胡椒などの香辛料と同じく海洋交易のパワー源です。そして、楽園は、西方(中東など)、北方(シナ、日本など)、東方(太平洋地域)へのルートの中間、中心の要でした。万年前の先史時代は近距離を繋いで行ったのかも知れませんが。

この鉱物もいたる所に火山があるからでもあります。そして、時には石よりも固い貴重・希少な物を見つけた人もいるでしょう。

「残念ながら、万年の時は鉄をも融かす。」(Danny Hilman博士)ので、使われたという証拠evidenceは見つかってませんが。

南方の歴史は、当時の木、竹、作物、相伝の工法・技、語り伝え、 そして遺骨・遺品も残り難く、evidenceは?と言われ泣かされています。

さて現在、この万年の宝石掘りは過熱気味で、政府は環境破壊を心配する状況になってきているようです。何しろここでも爆買いに来る人たちがいますので。

宝石の掘りHaloJepang

(Halo Jepang紙4月号から)

Stephen Oppenheimer

Weidenfeld & Nicolson, 1998

A book that completetly changes the established and conventional view of prehistory by relocating the Lost Eden – the world’s 1st civilisation – to SouthEast Asia. At the end of the Ice Age, SouthEast Asia formed a continent twice the size of India, which included Indochina, Malaysia, Indonesia and Borneo. The South China Sea, the Gulf of Thailand and the Java sea, which were all dry, formed the connecting parts of the continent. Geologically, this half sunken continent is the Shunda shelf or Sundaland. In the Eden in the East Stephen Oppenheimer puts forward the astonishing argument that here in southeast Asia – rather than in Mesopotamia where it is usually placed – was the lost civilisation that fertilised the Great cultures of the Middle East 6 thousand years ago. He produces evidence from ethnography, archaeology, oceanography, from creation stories, myths and sag as and from linguistics and DNA analysis, to argue that this founder civilisation was destroyed by a catastrophic flood, caused by a rapid rise in the sea level at the end of the last ice age.

「Nielsen BookData」

11月7日、英国ロンドンのクィーン・メリー大学において万年前の先史巨石文明等について、一般公開のOrigins会議が行われます。

当地グヌン・パダン遺跡については、調査リーダーのDanny Hilman 博士がskype参加する予定です。

話題としては以下のようなものです。

Gunung Padang, Gobekli Tepe, Stonehenge, the Great Sphinx, and even the newly discovered stone circle located beneath the waters of Lake Michigan.

 

origin会議

大石に乗った人に目が行ったと思われる下の写真ですが、私が注目しましたのは、大石運びです。

ニアスの葬送

(SEJARAH UNTUK SMA kelas Ⅹから)

万年前の(トルコ)ギョベクリ・テペGobekli Tepeも(英国)ストーン・ヘンジStone Henge も、弔い、祖霊信仰の巨石遺跡の造築のため、大石を運んでいます。

上の写真の説明では、亡くなった人のために建立するものですが、祖霊を呼び集め、石が今後亡くなる人の身代わりでもあるため、大きければ大きいほど戦いや疫病で亡くなる人が少なくなると信じられた極めて重要な葬送式です。

写真で分かりますが、目的地での建立だけでなく、大石を運んでいくプロセスそのものも重要です。運び手も集まっている人々も共に精神的に高揚していきます。

我々の身近にも目的は違うように思われますが、願いを込めて引き観客がいる移動のプロセスも重要な行事はいろいろあります。そして、上に人が乗っているのも重要なことです。

京都市観光協会神田明神千代田区観光課

祇園祭り(京都市観光協会から)   神田明神祭り(千代田区観光課から)

岸和田市観光課ニアスの葬送

だんじり祭り(岸和田市観光課から)

こうしたことから、弔い・祖霊信仰のギョベクリ・テペやストーン・ヘンジが長距離を大石を運んで造築したことも理解できます。

できるだけ大きな、立派な石が良いことも、人々が大変な労力と時に事故死亡の危険を甘受して建立したことも理解できます。

時代は下りますがエジプトのピラミッドは、農閑期の失業対策事業だったという説が最近出され、定説化しているようですが、私は違うと思います。

前述の例を見ても分かりますが、基本的には精神的なものでしょう。現人神ファラオの造築に関わり貢献し精神が高揚し、来世が約束されるなどのご利益のある行事活動です。

活動後に酒肴が振る舞われ、何がしかの物がいただけたとしてもそれが主因ではないでしょう。そして、ファラオが神ではないと思われ始めて壮大なピラミッドは造られなくなります。財力の衰えも一因ではありましょうが。

スマホとバイクの行きわたる生活は、万年のアジアの楽園を急速に変えて行っています。貴重な写真や物も消えていきます。

それでもまだ、竹筒に砥石を入れて鎌を研ぎ、バナナの幹を管理し雑草を刈ってあたりをきれいにすることは行われています。

と石と竹

万年前にも有ったでしょう。但し、竹は融け、時の長さは砥石をも変形させ、矢じりでも斧でもないので誰にも注目されることもなく、ということかもしれませんが。

さて、話は変わりますが、現代のファラオたる民主制は、その行事たる選挙に若い人たちがまともに関わらなくなったとすれば、見放されかねない危ういことと大いに気になります。

神輿を担いでくれず、綱を引いてくれねば成り立ちませんので、なだそうそうの事態です。

下記のニュースを見て、四国の伊予とアジアの楽園ジャワにある巨石遺跡、ストーンヘンジを想い出しました。

英ストーンヘンジで夏至の祭り、神秘の現象に2万3000人
2015年06月22日 発信地:ウィルトシャー州/英国(AFP BBNewsより)
(2015年6月21日撮影) (c)AFP/NIKLAS HALLE’N
英国の古代遺跡「ストーンヘンジ」で行われた夏至の祭典で日の出を見る人々(2015年6月21日撮影) (c)AFP/NIKLAS HALLE'N

集まった人たちの賑やかな祭りと、太陽光と巨石の関係の写真を見て、eブックランドの横山熱血社長を想い出しました。地元の新聞にも採りあげられた伊予の巨石遺跡の意義の認識に対する広がり具合に歯ぎしりされてましたので。

eブックランドでは6年前に瀬戸内海の巨石遺跡は古代の人工的な建造物ではないかと書いた「伊予のストーンヘンジ」(篠澤邦彦著)を電子と紙で出版しているが、広がりはもう一つだ。

ところが、皆さん、そこは人類の百貨店、アジアの楽園ジャワの倉庫にもほほえましいストーンヘンジ(Batu Solor 東ジャワ) があります。レバッ・チベドゥ遺跡(ジャワ島西部バンテン州)には、ピラミッド後方にストーン・サークルがあります。

当地や日本にも多くある太陽の運行と関わりがあるとみられる巨石建造物は、観測のほか、お墓という見方も出ています。あのトルコのギョベクリ・テペ遺跡もお仲間でしょう。

◆メソポタミアより古い遺跡がジャワ島にあった!◆
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アジアの楽園 探訪記

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