カナダ国境の「(魚)ムツBluefish洞窟遺跡」は、時代を隔てた2度のカナダ老若カナダ研究者の努力によって、馬のあごなど15の異なる骨の人為的な傷と骨器や石器で知られ、年代測定で24,000年前と出て、余りに古く今も大半の欧米先生が懐疑的です。

それは即ち、ベーリング地峡で人類が滞留する前に、最寒期LGMが到来する前に、ユーコン川を遡上して洞窟に痕跡を残したことになります。3つの洞窟だけでなく75km離れた所(流域のOld Crow)にも古い痕跡を残しています。問題は、シベリアのしっかりしたバイカル湖遺跡と同時期なので欧米先生はアタマを抱えます。ヤナRHS遺跡は単発で、どうも移住して行ったようにみえません。近年でも―60℃で凍死事故の出ている厳しい所です。さて、欧米先生は北海道を十分に認識してないんじゃないですか?東北の遺跡に根を持ち、伊豆の海を3.8万年前から行き来した海の民系の子孫が、3~2.5万年前、道南から遠軽白滝まで人骨こそありませんがしっかり石器などの痕跡を残しています。

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当時は北極海の冷水を地峡が止めて流れ込まなかった「米臨海」を北上して行ってユーコン川の河口からムツ洞窟にたどり着く事は、決して絵空事では有りません。世界に発信し子供たちに教えて、将来の研究に期待しましょう。



当時の海水面(気温・動植物等)、旧石器遺跡状況、DNA分析、比較言語研究(松本克己博士)などから、北海道が有力です(理論歴史考古学)。

アフリカを出た現生人類が東南アジアを北上し、暖かくなって動き出して4万年前頃に「曙海」を舟で渡って北部九州へ、日本海側にも大雪が無かったのでそのまま列島中を北上、 当時としては 最も暖かった3万年前頃に津軽海峡を越えて拡がり、海獣・昆布などの食の豊か処女地を引き続き北上、ベーリング地峡に達し、最寒期になって閉じ込められて数千年の足踏みでDNA変化、やがて温暖化し北太平洋沿岸の昆布ハイウェイ沿いに舟で米本土に進入という訳です。言葉が環太平洋語という共通性が保たれたことは、文化・習俗が受け継がれたことを窺わせます。一応これで理解できますから、ともかく子供たちに関連を教えて研究の促進を期待しましょう。


最新の研究では第1図、①舟で入って行ったと考えられ、DNA分析から最寒期LGM以前にベーリング地峡に達し、氷床が融けるのを待った数千年の地峡での滞留間にDNAが変化し新大陸に入って来たと考えられています。昆布ハイウェイに沿って茶点線のように海面低下で陸地が出ていましたし、米臨海は北極海の冷水が流れ込まないハワイに繋がる海でした。

問題は、シベリアのヤナRHS遺跡(一時的なもの?年代?)が知られており、その後の1万数千年年代の遺跡も知られていることから、第2図、欧米先生には舟だろうと大型哺乳動物を追ってだろうとシベリアから来たと言う認識が強い事です。「日本祖代」の豊富な北海道の遺跡が、それらと並んで図になっている英文資料を全く見ませんから、日本の研究と発信に大きな問題があります。まして、子供達に重要なこの問題の状況が教えられていないことが大問題です、細部次回。

実は下記第2図、巷間本・博物館の日本始まりの3方向図からは、ベーリング地峡に向かうこの問題への参加は全く有り得ませんので、誤りは罪深いことです。



今回は③スリランカです。独(マックスプランク研究所)、豪、地元の研究者が、それまでは生活はムリとみられていた熱帯雨林で、欧州より古い弓矢や服に関する最新の発見です。その環境適応の知的レベルに注目なのです。

これで、④過半が沈んだ人類史の補助線スンダランド熱帯雨林地帯も生活が考えられ、地域の洞窟壁画や舟による渡海などが良く理解できます。「日本祖人」は⑤約4万年前、九州に到着した時からかなりの知的レベルであったことが分かります。これまで出アフリカ~南米までの拡散史をお知らせして来ましたが、これらはご先祖(縄文人の先代)「日本祖人」に関する日本史課目であることが学界では理解されておらず残念です。 日本列島渡来の始まりは、 北・西・南の3方向からという誤りかつ井の中の認識では、「国際人」になる子供の「日本史」教育は全く出来ません。


「最初のアメリカ人」問題は、ベーリング地峡へ向かう①―>DNA分析から数千年間、融けを待って滞留か②―>氷床の一部が融けて「昆布ハイウェイから舟で」まず進入(最新説)③です。問題は、日本列島のみならずベーリング海のエスキモー・アリュート族、そして南北アメリカ大陸先住民とも環太平洋言語圏A(比較言語学 松本克己博士)である事です。欧米ではこの事がよく知られていないようですが重要で、西太平洋沿岸民がまず渡来進入しました。

ア.ベーリング地峡滞留地で既に言葉がAだった、または、イ.先に米本土に 進入したAが長い間に北・南アメリカ広域に拡がり、言葉が定着してから、内陸狩猟族が主に内陸「無氷回廊」から逐次に入って来て言葉を入れ替えることなく、闘いの強さから今は人的に主流になっているようだと解釈できます。欧米先生の認識と全く違う仮説が、考古遺跡とDNAの分析に言語の面からムリ無く理解できます。そうなると北海道は世界人類拡散史において極めて重要で、今や北上して行ったのかどうかではなく、ルートは、a-1かa-2だったのかというレベルです。a-1は次々に島が見えていて比較して温暖であり、十分列挙されます。

そして、北上して行ったのは「北海道日本祖人」であり、縄文人は生まれておらず、鎌倉時代からのアイヌは問題外です。北海道日本祖人は、アメリカ先住民の先祖の可能性があります。直ちに3方向日本渡来図を北上図に訂正し、子供たちを世界の議論に参加させましょう。


3方向渡来図の誤りの一つは出て行かないため、世界人類史の最後の謎であるアメリカ南北先住民は何処から・誰?議論に参加していないことです。今それまでの定説が覆り、無氷回廊が開いていない(開いて間もない)時期なのに、北米いや南米チリでも遺跡が報告(14,500年前)され、ベーリング地峡の「沿岸から昆布ハイウェイ沿いに舟で来た」が、新説です。

しかし、欧米先生は依然としてDNAや歯からシベリア狩猟族のイメージでしょう。それは、松本教授の言語研究がよく知られていないためでもあります。実は米先住民の言葉は、日本人などと同じ環太平洋言語圏であり、シベリア狩猟族とは違うのです。日本語は縄文時代くらいまでさかのぼって環太平洋に仲間がいて特殊なモノでなく、英語の先生にいくら注意されてもLとRは区別できず、1冊1本も10冊10本であり単複同じでSを忘れます。美しい、美しくない、美しければと簡単に言えますが、beautifulから「美しければ」を英語で言えと言われると何付けていいか頭抱えます。お月様は男か女かと訊かれ、キョトンとしていて立たされます。

最初のアメリカ人は、17,000年前頃、入って来たと考えられていますので、縄文人はまだ生まれておらず、鎌倉時代頃からのアイヌ(北海道大学の研究)は論外です。最近、やっと人類史の欧米先生が、JomonだのAinuだのと言わなくなってきました(日本国会のアイヌ先住決議は誤解を広め罪深い)。今、3万年前からの北海道「日本祖人」に注目し研究(3方向渡来図は罪深い)されるべきなのです。 世界の話題は舟ですが、 何しろ、38,000年前から伊豆の海を黒耀石を求めて行き来した海民の子孫ですので。


日本人は何処から?3方向渡来図の出発地(赤丸)がおかしく、B1地域とちゃんと描くべきです(Aからなら意味なし)。ところがここで、ジンギスカンにびっくりした欧米学者の誤りは、AとB1を同じ「古モンゴロイド」と呼んでいることです。

本来、B1がその後、降雪寒冷に適応して体が変化した(平たい顔、細い目、貧毛、短足・手など)人たちをモンゴロイド(B2)と呼ぶべきなのです。このB1とは何かが、出アフリカ後に何処をどう来たのか、どのくらいの量か、どんな変化か、混じり合いと時代の差もあり、「訳分かりません」。そして、3方向からの人たちを混ぜ合わせたらどんな人たちになるのか、これも図を入口で止めているので「訳分かりません」。つまり、単一民族ではないと言いたいだけの印象操作図ですから学問足り得ません。決定的なのは、DNAもさることながら3方向を描くなら重要となる言語であり、AとB1は万年を遡って違うのです。それはA環太平洋語族とB1内陸の諸語族の違いなのです(次回)。

日本人は何処から、誰?は、約4万年前から始まり3万年前には列島中に拡がった Aの西太平洋沿岸族の北上を基本に、後でいろいろに渡来した者たちなのです。重要なことは、いろいろ渡来して混じり合っても言葉の基本、文化習俗に共通性の幹があることなのです。言葉の基本を変えるような大量の人の流入や征服は無かったのです。違いは地域の特性に応じた暮らしぶりと方言なのです。


前回は世界人類史の北上(第2図)でしたが、何故、アフリカを出た黒人が北海道にまで至ったのかは、幾つかの幸運のお蔭でした。第1図、注目は仙台以北の狩りが容易な海獣・鳥・卵の食と衣・住への活用の幸運です。北海道という寒さに適応する訓練が出来ていた上、更に昆布ハイウェイがあり豊かな海藻が加わりました。

当時は対馬暖流が無く、日本海側に大雪が降らず、各地に点在した宝物の黒耀石が長野でも採れて太平洋側と日本海側が繫がり列島2軸並行発展と文化融合がありました。北海道でも宝物石が豊かに採れた事も幸運でした。神津・恩馳島に良質な物が有ったので、海洋を舟で行き来したのも大変な造舟操舟のノウハウ向上でした。それでも北部九州から北海道まで行きつ戻りつし、厳しい寒さに適応するまでに1万年というじっくりの長さを要しています。3万年前、沖縄へはトカラ越えが大変だったのでしょう。北海道から更に北上を続け、米新大陸に向かったと考えられます。

そして更に、1万数千年後に温暖化に伴う煮炊き保管の土器が生まれ、学者によってはこの時期から縄文時代と呼んでいますが、当然、前後で人に違いは有りません(江戸人と明治人)。ここで、青森は注目です。太平洋側と日本海側の東西、東北と北海道の南北文化がクロスした十字路ですから先進性が生まれて納得で、三内丸山、遮光土偶と日本文化をリードします。2.9万年前の先進鹿児島を襲った姶良大噴火が大変残念でした。

「因みに、出アフリカ黒人が東南アジア・Sundalandで変化したのは「インマレイド」人種(仮称)で、北上して日本列島に来ています。日本列島でなく南シベリア・モンゴル地域へ、あるいは出アフリカから直北上して同地域に至り、「降雪寒冷適応」を果たして変化した人を「モンゴロイド」と言うべきです。従って、モンゴロイドが日本列島に来るのは、実はずっと後の事(せいぜい2万年前)なのです。現在の新旧モンゴロイドという言い方は、ジンギスカンにびっくりさせられた欧米学者のアジア人に対する大雑把な呼称で、誤りです。

  

巷間本・博物館の第1図3方向渡来図は、日本列島に入るばかりで出て行かないので、鎖国のようで世界人類史研究には何の寄与もありません。実際は南方からの北上の一方向性が1万件の旧石器遺跡で示されているのにです。

北海道ルートは、書かれている時代に沿海州にも樺太にも遺跡の発見は有りません。それよりも北上した遺跡が3万年前から十勝、千歳、2.8万年ですが遠軽白滝にあるのです。対馬ルートは、あたかも大陸の内部から来たかのようですが、実際は沿岸からの北上で、時期も38,000年前は既に伊豆の海を行き来していますので、約4万年前とするのが正確なのです。沖縄ルートは、九州からの南下なのです。先島が、慶良間ギャップ越えか、台湾からか議論となります。移住は、女性や老人・子供を伴うものですし、台湾の学者は、黒潮を越えては行かなかっただろうと言っています。それは、危険に比して食料などの魅力が不十分だからです。このようにおかしい誤解を招く図が描かれ、世界への寄与も阻害されているのです。

むしろ、欧米学者の説を取り上げた第2図、緑線は日本列島を通って17,000年前頃に渡米しています。その理由は、米大陸が氷床に閉ざされている時代に、同等以上に古い遺跡が米本土のみならず南米で発見されているからです。但し、細かい点で地域への理解が不十分です。①出発は大陸内陸からでなく、パンカル海の沿岸族の北上です。②家族の慶良間ギャップ越えは無理で、沿岸から北部九州に至り日本列島を北上したものです。③アッツギャップは、450kmもあり家族の渡海はムリでしたでしょう。④DNA専門家は、ベーリング地峡で、沿岸氷床の融けを待った“滞留”があったと考えています。北海道「日本祖人」A,シベリア狩猟族Bが共存した事でしょう。

以上から、昆布ハイウェイを行った「最初のアメリカ人」Xは, A, B, A+B, 混ざって変異したCなどが考えられますが、誤りの多い第1図3方向渡来図は、全くこの議論に参加できず寄与しない事が最大の問題なのです。


人類が円環を認知し、造形に至った遺跡は重要です。欧米ではストーンヘンジが有名で、狩猟採集時代から農耕定住時代になってからのことと言われてきました。ところが近年、トルコで世界驚きのギョベクリ・テぺ(12,000年前頃~)が発見され、狩猟採集時代にこれほどの建造物が有ったことが分かっただけでなく、造形が円環なのです。

さて、それらとは、建造の程度で全く比較にはなりませんが、普通に見えて驚きも無い佐野上林(かんばやし)の「日本祖人」の環状ムラは、人類の認知性史、社会史に着目した場合、驚きの古さの痕跡(3万年前)なのです。日本には、秋田大湯の縄文環状列石が精神性を示す物として有名です。日本祖代では、①伊豆の海を舟で行き来した、②環状ムラで暮らした、③動物の習性を知って陥し穴を多数作って猟をした、④釣り針で魚を取った、おそらく⑤北の海で海獣を食したなどは、世界人類史に記述される誇るべきものであり、決して教科書に名前の無い原始人では有りませんでした。


此処は遠きブルガ~リア、欧州最古の現生人類史は、若干遡って4.6万年前から(May 11 in Nature)になりましたが、依然としてアジアの台湾や豪州に遠く及びません。ボスポラス海峡は狭く歩いて渡れるくらいで、実は、出アフリカ後のブルガリアは遠くありませんから不思議です。

どうも欧米先生は、先に居たネアンデルタール旧人研究好きで、埋葬のお花があったとか、現生人と交雑があったとかで騒ぎますが、彼らは無縁です。肝心のアフリカの黒人が、どのように欧州人になったのかの足取りがはっきりしません。これだけ時代差があるとインド人が戻って行った可能性も排除できないでしょう。同様に中国先生も北京原人や旧人好きですが、進化して中国人になったとするのは学問的にはっきりムリであり、いつ頃、何処からの出自はよく分からず、目立たなくしているピラミッドや青い目のミイラの分析の方が重要でしょう。という訳で、肝心の自分たちの始まり時代は余り世界が研究熱心でないからでしょうか、日本の教室がこの程度の事も教えないのが、誠に困ったものです。


第1図と第2図の違いが分からない日本人説明が権威を持って出回っていますが、間違いです。

第1図、北上した西太平洋沿岸族である「日本祖人」が1万数千年以上の暮らしを作り上げた基礎の上に、複合大陸族が北、西、南から時代も人数も様々に渡来したものです。第2図、時代も新しく中身も異にする複合甲、乙、丙が混ざり合って出来上がったものとは文化習俗が違います。食べ物で言えば、胃に入れば似たようなものですが、ご飯、刺身とサイコロステーキ、味噌汁を一つ一つ味わうのと、どんぶりにこれらをすべて入れて混ぜて食べるのは、味わいという文化習俗の違いと言えば、まあ例になるでしょう。「日本人とは?」、猫飯ではありません。出アフリカの現生人類は皆同じようなものですが、日本人が一寸違う特色は、こういう生まれと育ちにあるからでしょう。


図が示すように、西太平洋沿岸族に①②の差がありますが、注目は複雑なB③との違いで、後にこのB③が日本に入って来て複雑化したものを、北・西・南の3方向から日本に入って来た複雑さと歪曲した図が主流となっている問題があります。あくまで下図の北上拡散が、私たちの最深の基層です。

次に北海道が注目で、最初のアメリカ人にはっきり含まれ、更に樺太沿海州に北上を続けてますが、今の日本には歪曲された樺太からの南下図しか有りません。

最後に、原郷のパンカル東岸地域も、豪州へ向かった(結果的に)人々とスラウェシ島・マロスで分岐しています。彼らは世界の学界では、現生人類最古の渡海者(数十km)として紹介されています。

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さて、ご先祖はフィリピンへ2~3度の渡海、バシー海峡を渡海し台湾山地沿岸に、そして約4万年前に対馬か五島に、伊豆の海を交換財の黒耀石を求めて行き来し、津軽海峡を越え、千島を渡り沿岸をアメリカ新大陸へと実に海の民としての理解できる拡散です。これらは、考古遺跡と一致するもので、米国博士のこの図が、日本に一つもない現状こそが問題です。マロスには世界最古の洞窟絵(4万年前)だけでなく舟を描いたものがあり、島中部にも有って私はホントに驚かされました。なにしろ洞窟に舟ですから。

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島中部のトラジャ族は舟ような高床家や習俗で倭族的と言われ、島南部沿岸のマカッサル・ブギス人は、海の民としての有名な活躍と拡がりで、シンガポールにはブギス駅があります。これらは、考古遺跡や歴史とも合致し、むしろ驚かされる全くの納得です。我が国の始まりに関する現生人類のこの地域における古い歴史研究は、欧米・豪州人によるもので、ご先祖研究に貢献しない日本の研究事情とそもそも子供たちに全く教えない現状が誠に情けないです。皇族の薨去は「お舟入り」です。


  米国Wells博士が、Y-DNAから現生人類の拡散を描いていますが、日本列島を通過する線を遡ると第1・2図で直接的な原郷は「パンカル海」東岸域(赤点線)になり、第1図北上した分岐の北海道が注目され、「最初のアメリカ人」も氷床寒冷線の無氷回廊の閉鎖を考えれば最新考古学説と一致しています。

細部を第2図で見ると、最新研究で北ルートになった豪州へ行った人々とスラウェシ地域で分かれています。ここのマロス洞窟壁画は世界最古(4万年前)で壁に舟を描いている海の民で、マカッサル・ブギス人は、近代でもマレーシア~豪州に渡る最高の海の民として知られています。さて北上し、渡海に注目すると下図第1図フィリピン、バシー海峡小島を越えて台湾山地沿岸から、第2図北部九州へとこれも考古学遺跡と一致して納得しうるものです。

注目すべきは、博士が第1図「パンカル海」東西とその北部の地域に2本の線を引いていることです。西太平洋沿岸族ですが、更に細かく見れば、第1図①島系と②陸地系に違いがあるという興味深い図になっています 。

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現生人類のアジア移住は、インド8万、豪州6.5~5万、フィリピン6.7万、ラオス6万年前などの周辺情報から、第1図スンダランド・トバの大噴火(7.3万年前頃)前後の通過となり、この西太平洋沿岸族の北上については、近年、「パンカル海」西岸の発掘が、旧人の時代とも考えられるものを含み活発です。そして、第2図台湾山地から「曙海」時計回りで沖縄本島までと北上して北海道にまで拡がり(姶良大噴火:2.9万年前)ます。

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日本人は何処からに関して、アジアにおいては人類が海を渡ったことは特筆すべき特色です。
注目すべきは、第1図豪州、比と北部九州では渡海が始まりの”海の民性”です。多くの家族が造舟(筏)・操舟で、危険を伴って新天地に渡っています。日本ではその後3.8万年前に伊豆の海を行き来し、3万年前には沖縄へ、狭いですが津軽海峡を越えて北海道に拡がりました。今「最初のアメリカ人」は、沿岸を舟でやって来た、というのが新説です。移住とは、女性、子供、老智者を含む家族多数が、造舟(筏)・操舟で、危険を伴って新天地に渡っている訳です。巷間よく3方向渡来図を見ますが誤解の元です。この海の民性は、約2万年間の「日本祖代」の期間の長さもさることながら、日本史中世まではっきりでしたし、現代でも皇族が薨去された場合、私たち下々の入棺ではなく、「お舟入り」と言われる事からも分かります。

そして、海を渡った西太平洋沿岸族の知力向上の進化について、インドネシア・スマトラ島トバの大噴火がもたらした可能性が考えられます。艱難汝を玉にすという訳です。問題は標題のように、私たちの現生人類の祖先について、世界における日本人研究者の寄与が殆ど無く、この図のようにスンダランド、パンカル海から曙海に連接した一貫図を見ることも無いことです。はっきり言って誤解を招く3方向渡来図も含め、歪んでいます。明治~戦前の先人は、スンダランドもこのような遺跡も知りませんでしたが、地域を廻って人々と文化習俗を調査して、原郷は南方という同じ結論に達していました。子供達に見せて考えさせましょう。ところで、インド太平洋構想って、この万年前の北上のことですか?



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