環太平洋海浜・舟行ルート説Teori RLPP(5)―Aborigin menyebarang ke Amerika Selatan masa Plestosin !

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Nara Akira http://www.sunda-wind.net

前回でパンカル人の子孫keturunan bangsa Pangkalは日本列島を後にしましたが、旅行ツアーではありませんbukan pariwisataのでアメリカに到達したという意味は、様々なことがあったこの時代の歴史の中で幾つかのグループのうち生きて達した人たちがいたbeberapa kelompok tiba di Amerikaということです。

1960年代の米スミソニアンSmithsonian博物館のBetty Megers博士などは、南米エクアドルEkuadorで発見された古いバルディビア土器grabah Valdiviaが、「九州縄文時代前期から中期の初頭の土器、例えば曽畑式などと酷似seperti sama dengan bikin Jepangしている」(エクアドルの歴史 – Wikipedia)として、縄文と南米の接触・伝播説Teori transmisiを唱え、博士等3者はその研究結果を出版しています。

博士は、よく似ているだけでなく、土器grabahが突然エクアドルの古い層に姿を現していてtiba-tiba muncur di bawah tanah kuno Ekuadorどこにも普通に見られる発展段階の物がなくエクアドルやアメリカの土器文化が始まっていることにも注目しています。

また、米北西部ワシントン州(内陸)における縄文人骨とみられる発見など時代としてはずっと下ったいくつかの事例ですが、参考になります。

なお、Megers博士は来日datang ke Jepangし記念講演会で伝播についての自説Teori transmisiを説明し、日本の学者等と意見交換し確信されています。その他、東京古田会Tokyo Furutakaiは、伊豆の下田を出航したdari Shimoda五千年前からある種のダブルカヌーkano pasangan第三野生号で五か月lima bulan足らずでエクアドルまで辿り着くberhasil tiba di Ekuadorことに成功したと報告しています。(東京古田会 メガース博士来日記念講演会の報告から)

海流をみると、古来幾多の人・物がアメリカに到達していることが納得できます。そして

赤道khatulistiwa海流は、正に南米北部ke Amerika selatanに達しています。

海の民bangsa lautとして逞しく生きてきたパンカルの人々の子孫keturunan Pangkalの

知見・技術と行動力daya tindakanであれば達し得ると思わせられます。

他方、日本列島dari Jepangから、カムチャッカ、アリューシャン列島を経てlewat Aleutian

海浜・舟行pantai・perahuで北米太平洋岸から南米へというルートruteも考えられます。

アマゾン流域に部族が残るということは、女性も交えての移動bersama wanitaですので、

陸地沿岸を行くルートは着実langkah demi langkahです。

当時の北米大陸のカナダCanada地域は、厚い氷床es tebalに覆われていましたが、地域

のアラスカ海流は、沿岸気候を温和化しています。

一方で4-2万年前当時ですが、その中には比較的温暖な時期もあり、「アラスカAlaskaは

1年中寒いというイメージbayangan sangat dinginがあるかもしれないが、夏の暑い日には

30℃を超えることも珍しくない。

なかでもアンカレジAnchorageを中心とする中南部沿岸や西南部は、比較的温暖hangatな

気候で知られる地域だ。」(地球の歩き方)に思いを致すことも必要でしょう。

海水面が約130m下がって海浜が拡がり、また、沿岸には島々も多く、冷涼に対応しつつ

berkesesuaian dingin生活の場を着実に早めに移して南下していったberpindahと考え

られます。

基本的にはその後の海水面の上昇で遺物の発見menemukan artefakは極めて困難

susahですが、逞しい行動力の人々が舟も使い海浜・島々を暖かい夏場の時期に南下

tampakbisa turun ke selatanしていったことも考えられるでしょう。

パンカル人子孫が、アメリカヘ渡ったmenyebarang ke Amerikaのは、もともと人類

manusiaは旅をする生き物makhluk berjalananで人間の脳otak manusiaもそれに伴

って進化evolusiしており、また、誰もいない無人の地tak berpenghuniに食料が沢山

makanan banyakあるという魅力に惹かれたdiharapkanなどのことだったのでしょう。

これらに関して、更に私が注目tertarikしていることがありますが、それは今、注目されて

きていますカタストロフィックな大災害bencana katastrofikについてです。

前述のBetty Megers博士などや東京古田会も注目していますberpikirが、縄文人を船出

Jomon kapal berangkatさせた原因ではないかと考えられている南九州沖laut Kyusyu

selatanの喜界カルデラの噴火erupsiと火山灰abu volkanによる甚大な被害・影響です。

(鬼界アカホヤ火山灰 – Wikipedia)

同様に私は、パンカル人子孫との関係でhubungan dengan keturunan Pangkalその生起

した時代から注目していますのが、鹿児島の桜島Sakurajima付近で始まったとされる姶良

大噴火erupsi besar di Airaです。日本列島の先進地域は、少なくとも2度の大打撃を受け

たことになります。

姶良カルデラ(あいらカルデラ)は、鹿児島湾北部(湾奥)において直径約20kmの窪地を

構成しているカルデラである。加久藤カルデラ阿多カルデラの間に位置する。カルデラ

を形成した姶良大噴火erupsiは、約2万9000年前から2万6000年前tahun laluである

と推定されている。(姶良カルデラ – Wikipedia)

火山灰の状況keadaan abu volkanは、下図のとおり広範囲に及んでおります。

(Wikipediaから)

大災害bencana besarは、有無を言わせず人々を駆り立てたmanusia didorongのではない

でしょうか。歴史にはdalam sejarah、暑いの寒いの辛いのと言っておれない厳しい時代

dahsyatがありました。つい最近にもです。

それでも船出は、無謀ではなかったと思います。

それは人間より遥かに前から、下図のように渡り鳥たちberung  bermigrasiは陸地から

それ程遠くない所を季節に応じ行き来trafikしていました。(但し、東西方向の直路はあり

ません。)

当時の海の民はこのことを知っておりbangsa laut tahu、ある程度の見通しを持って動いて

いたと考えています。

パンカルPangkal地域からマダガスカルに人が、根菜類ubi-ubianが西アフリカに渡ってい

るのも、更には何故か大西洋岸のカナリア諸島Kanariasやイギリスなどに付近から孤立し

た形で巨石遺跡situs magalitikがあるのも下図のように鳥に導かれた海のルートがあった

から伝播tersebarしたのだろうと思っています。

いずれのルートdua rute mungkinにしても日本列島からdari Jepang海浜・舟行で太平洋

lewat Samudera Pasifikを越えて初めてpermulaannya南米に渡りましたmenyebarang

sampai ke Amerika selatan。

そして、縄文時代以前の万年の大昔に、東南アジアの赤道地域の人たちが日本列島を

経由して、寒冷地適応型に遺伝形質を変化させることなく南米に達していたことが重要

です。

この馬蹄型ルート(仮称)沿いの事跡の見直し、今後の新たな研究が期待されます。

米ハーバード医科大チームの素晴らしい研究成果に対し、心から敬意を表します。

It’s important that people in equator region had crossed Pasific Ocean through Japan

without changing trait of human body to South Amerika in Pleistocene.

It’s needed to revise prehistory  and to study newly along this horseshoe route.

I salute to great research outcomes by the Team of Harvard Medical School .

 

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