(新説)日本祖人が最初に米新大陸に渡ったのであろう④ベーリング海沿岸回り

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前回、北海道・北方領土から海峡・水道の多い千島列島越えを見てきましたが、北のカムチャッカ半島沿岸を北上して最北端に向かいます。

現在、学界は米新大陸への現生人類の進入について、ベーリング海峡が海水面低下でベリンギア地峡となっていた所を越えて下図シベリアのβ北方適応型人が北米本土に入っていったという従来のβ2ルート定説を修正し、β1沿岸ルートであったようだとしています。

その理由は、アラスカ~カナダの無氷回廊ルート約1,500kmの長い道のりを人類が通って行けたのは氷河期が温暖化してルートの氷が融け動植物を食せるようになった12,600年前頃以降だが、それだと北米の14,000年前、更には同時期頃のずっと南の南米の遺跡の説明がつかないからです。

さて結論的に、このサイトではそのβ前に、α日本祖人(南方海人型)が北海道~千島列島からベーリング海沿岸を回って米大陸西岸を経て南米にまで沿岸ルートを先行していたのだろうという新説を提唱しています。

これは、昨年米ハーヴァード医科大が発表した、南米アマゾンの古い部族のDNAが北米ネイティブやシベリアの先住民ではなく、豪アボリジニや印アンダマン諸島に今も生活している出アフリカ後の早い時代の古い人に近いという頭を抱えている問題が説明できると考えるからです。

インドネシアの仲間は、ともかく豪・東南アジア地域から(直路)太平洋を渡って南米に行ったのだと言いますが、地域の歴史、大平洋の遺跡の状況から世界の考古学界はそれを全く否定しています。

渡ったとしても万年前でなく、ゼロが一つか二つ少ない新しい時代の事だと。

さてそれでは、その日本祖人(南方海人型)の2万数千年前のカムチャッカ半島・ベーリング海回りルートの検討です。

ルートのこの部分では(そこを通過以降も)、前回のように長い海峡を舟で、しかもいくつもの家族が500人といったレベルで渡って歩みを続けるといった問題はありません。北米西岸までずっと陸地伝いです。

前掲図の通り、下図のアッツ島へは、発見された遺跡などの状況から、カムチャッカ半島の半ばから長距離の海を越えたのではなく東から伝って行ったとみられていますので。

ベーリング海沿岸はステップツンドラ、一部の南には針葉樹もあったでしょう。水産物、アザラシなどの海獣・鯨、陸上哺乳動物、海藻草などの植物、海鳥・卵など食料には事欠かなかったとみられています。

従って、問題は最寒冷の下図1.A地域はどうだったのだろうかとなります。

実は下図のとおり、北海道太平洋岸で暮らしていた3万年前頃は氷河前進の寒冷期で、1.A地域に達した2万5千年前頃は氷河後退の寒冷緩和期でした。

ベーリング海峡ではなく、海水面低下で地峡となっていましたので北極海の冷たい海水がベーリング海に入って来ることはありませんでしたので、沿岸の海水温度は今より低くないが緩和期とはいえ氷河期でした(ベーリング海の冬の流氷の状況は今ほどではなかったでしょう)。

まあ、従って地域の気温は低かったとしても今より2~3℃というところだったでしょう。地域のナヴァリン岬の気温は、下表のとおりです。冬のシベリア・アラスカは―40℃というイメージとは大分違います。

一方、北海道太平洋岸の冬の最低気温が―20℃くらいですので(前々回参照)、当時の氷河寒冷期3~5℃低いことを考慮すればルート最寒の1.Aナヴァリン岬地域とそれ程の差がない状況だったと考えられます。

4万年前頃、九州から太平洋岸と日本海岸を黒潮に沿うように日本本土沿岸を北上し始めた日本祖人が、3万年前頃、北海道太平洋岸に至って寒い冬の雪国の暮らしにも慣れました。

従って上記2点から、南方からの特質を保持したまま千島列島、次に暖流で今は不凍大軍港であるペトロパブロフスクのあるカムチャッカ半島、北のナヴァリン岬を経て当時のベリンギア地峡沿岸からアラスカ半島・湾岸に入ることは、それほど無理はなかったと考えます。

千島列島と違ってカムチャッカ半島では、身近に熊がいる脅威はありましたが、日本からのそれまでの道のりでもいましたので爺さんの語り伝え話で対応はしっかり聞いていたことでしょう。

水産物、アザラシなどの海獣・鯨、陸上哺乳動物、海藻草などの植物、海鳥などの状況は、ベリンギアによって北極海と別れたベーリング海の内海的な環境変化による今との違いがどうであったのかをはっきり記述はできませんが、今より暖かめの北太平洋の波に抱かれたものでした。問題はなかったでしょう。

ベリンギア沿岸では、ピナクルやプリビロフ諸島が小山であり、マンモスやバイソンなどの大型哺乳動物がステップツンドラを動き回っていたことでしょう。

因みに、大陸内部のバイカル湖方面から発展してきたβ北方適応型の狩猟人たちが来る前に、仮に来ていたとしても沿岸をマイペースで日本祖人(南方海人型)と子孫は発展していったものと考えています(南方アマゾンのゴールテープを目指したかのように)。

{成る程、ところでそんな2万5千年前といった古い時代に日本祖人(南方海人型)が、ベーリング海を回りアラスカ湾を越えて南下していったという証拠、痕跡でもあるのか?}

はい。

歴シニアとしましては、シベリア、アラスカに実に多くの種族がいますが、ロシア人を驚かせた操舟・狩猟技量の海の民であるアリューシャン列島のアレウト族や自ら”海洋民族”と言うカナダ太平洋岸クィーン・シャーロット諸島の誇り高いハイダ族などは(下図赤丸)、場所が米大陸本土から離れているが故に古い独自の、伝統ある海の民αの生活の痕跡を留め得たもの(DNAは違うようですが)と感じています。

アリューシャン列島の島々はもとより、米大陸西岸のカナダ、クィーン・シャーロット諸島のハイダ族の居住地も大陸から離れたルート沿いの島です。

考えてみますと、ユーラシア大陸内陸の狩猟人たちと異なる南方海人型の人や風俗習慣は、消えてしまうことなく、日本・古い時代の千島列島についての話に残っており今も受け継がれていると言えます。

明治時代の文明開化で欧米の科学者が来日し、米人エドワード・モースによる大森貝塚の発見を契機に初めて日本人の先史に関する科学的な研究議論がなされて日本人類学が立ち上がりました。

そして、日本の始まりについての研究が本格的に歩み出しましたが、百年を超える昔の熱い議論の中には大変興味深い内容があります。

以下、次回です。

(了)

 

 

 

 

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