日本列島史始まりの曙海の畔

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約4万年前、我が日本列島史の始まりである日本祖代の状況に迫ります。

現生人類が出アフリカを果たし、東進して東南アジアのSundalandの地域に至り、6.5万年前に豪州に数十㎞の海を越えて渡っています。

注目されますのは、東チモール東部のジェリマライ遺跡で5万点もの魚骨が発見されて、4.2万年前と判断される、捕獲が容易でない外洋表層魚(サバ科、鰹やキハダなど)が含まれ、時代は下りますが釣り針も発見されています。(京都府大 小野林太郎博士)

これらの事から、人類の豪州渡洋は、単なるハプニングではなくかなりの数の外洋渡航に長けた海の民家族の必然の渡航であったと言えます。

そして、日本列島史の始まりを考えます時に、Sundaland地域から北上して来た人々が、外洋渡航に長けた「海の民」の子孫であったであろうことは重要です。

海を越えて九州に至り、3万年前頃には北海道にまで達して拡がり、我が列島の原風景が出来ました。その後、樺太から北海道へ、また、西から九州へかなりの人が特に2万年前頃、渡来したようです。

こう考えますと、列島史始まりの日本祖代は、曙海の畔からとなります。

先ず気温が4℃くらい低い時代でした。海水面が80mくらい低下していましたので、北東ア平野が台湾山地から朝鮮山地まで長い海岸線を作っていました。

次に、気温から今と違って曙海の畔には温帯広葉樹林が拡がり、林内には猪や鹿などの動物たちが居たであろうことです。木、竹、骨など十分な道具や暮らしの材料が得られたでしょう。

寒暖と乾湿が、年により季節によりかなり変動が激しい厳しい時代だったようですが、このことは返って適応を図る人々の発達を促したのかも知れません。

その後の早い時期から、関東伊豆の神津島に渡海して黒曜石を採りに行っていますので、やはりそもそもの海の民で曙海の畔で水産物を主に食し暮らしていた事でしょう。

台湾山地から北上して九州に定着するのに約2万年くらいかかったのではと思われますが、これは北上による寒さへの適応(又は南西の長距離海峡越え)とみられます。

欧州の例からこれだけの期間ですと、皮膚の色は大分薄くなっていたものと思われます。

しかし、この初期の寒冷適応によって、九州から北陸、東北、北海道と降雪寒冷地へ拡がって行く基盤が出来ていたのでしょう。

この時代は、国境も無い曙海の畔の人たちはまあ似たような海の民の暮らしぶりであったでしょう。

そしてこの事から、従来の黒潮「海上の道」論ですが、逆に五島から南九州、沖縄本島という時計回りの日本祖人進出ではなかったのかという問題が出てきます。

現在の遺跡・人骨では、山下洞人が八重山人骨よりも古いですし、何よりも長距離の宮古~本島間の海峡越えがあります。八重山へすら、長距離の黒潮越えの厳しさから、台湾からではなく、時計回りに経験を積んだ人々による本島—>八重山であったかも知れないと考えます。

やがて、北東ア平野の人たちは、海水面の上昇に追われて西進し、内陸から来た大型哺乳動物の狩猟民族に圧迫されることになります。

九州から北上した日本祖人は、海水面の上昇でより大陸側と離れて独自の熟成の度を強めたのでしょう。

そんな海の民集団が、太平洋側と日本海側の両ルートで北へ拡がって行ったようです。そして、川を遡行して高地にまで暮らしの範囲を拡げて行きました。

更には、北海道から千島列島、ベーリング地峡南岸を経てアメリカ新大陸へ渡って行ったものと考えます。(https://youtu.be/BGrhO1ntyYo)

(了)

 

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