断食月ラマダンの点描

カテゴリー: こぼれ話,最新情報

朝、日が昇るとイスラム教徒は、日没まで食べ物を口にしません。他国でですが、私はかつて現地服を着て、カミさんの買い物待ちに外で座って煙草を吸っていて、敬虔な老人に怒られたことがあります(仏教徒とは言えずに)。

日の出

早朝の状況は以前お伝えしましたが、日中もお店などなかなか賑わっています。というのは、既に断食明けのお祝いルバランに向けて商戦が、佳境に入っているためです。

そして、女性が抑圧されているとよくその槍玉に挙がる服装のヒジャーブ・ジルバブ・クルドゥン(呼び名多様)ですが、私には日本と同じくやはり元気な山の神と感じられます。

洋装点 クルドゥン3

クルドゥン クルドゥン1

デザイン、色も多種です。薄地で軽く暑くなく、何より全体型柔軟対応、小顔化の優れものです。 抑圧!?どころじゃないでしょう。

やがて、夕暮れ時になると普段は見られない臨時のお店も通りにでき、果物が主のフルーツポンチのような胃に優しそうな甘い食べ物が、売られます。日没後の特に土・日は、レストランも盛況です。持ち帰りも多いですし。

ポンチ ラマダン夕食

一寸、私のこれまでのラマダンのイメージが変わりました。

暗くなって、モスクのスピーカーから流れる音量の大きい、神への祈りとともに宗教心を高めた各家庭は夕餉をいただいていることでしょう(音を伝えられませんが)。

dagoの夜景

四国伊予の巨石遺跡(参照:人類最古の文明「アジアの楽園」探訪記)と当地のほほえましいストーンヘンジについて既にレポートしましたが、Danny Hilman博士がFacebookで本場英国のストーンヘンジに関し、英BBC放送の驚きの情報を紹介しハイテク調査の必要を訴えています。

最近の調査(現在も続行中)で、地中に人工のずっと大きな構造物があることが発見されている。造られ始めたのは、11,000年前(!)で、調査チーム(バーミンガム大学等)は、この地中円環構造物を「スーパーヘンジ」と命名した。

私(奈良)は、これはギョベクリ・テペ、グヌン・パダンなど万年を超える石器時代人による高度な構造物の例に加わる新たな大きな発見だと考えます。

そして、超古代石器人のイメージを変換し、超古代研究の重要性を示すものと考えます。

新たなあるいは現在の遺跡の地中あるいは内部に、更に古い遺跡を発見するなどの新調査法の科学の時代の本格化です。

アジアの楽園、人類の百貨店には多くの遺跡がありますが、グヌン・パダンのみならず、古い聖地にその後、更に建造した可能性のある所はあると思いますので、今後が楽しみになってきました。

Recent and ongoing geophysical subsurface imaging on and around STONEHENGE revealed that this exposed structures is only a small circle on top of much larger manmade structures that has been buried beneath the ground! And the constructions might have been started since 11,000 years ago!! They name the hidden, burried ‘circle’ structures as “SUPERHENGE”.

ボロブドゥールも現場へ行ってこそ感ずるということがありました。

場所は、独立時代に臨時首都になったジャワ伝統のジョグジャカルタ特別州(中ジャワ)から北西へ少し外れた所です。バスで向かう途中にムラピ活火山が煙をはいていますが、わずかな間だけ右側に宝来山を控えた富士山そっくりに見え驚かされます。

寺院は、きれいに整備された公園地域の奥にあります。

「Can you speak English?」ジルバブ被った女子の珍しい質問です。

聞けば、先生からともかく英語を話す人に同行してレポートを出すように言われているノート片手の女子中学生さんで、一緒に回りました。(孫たちよ、頑張れ!)

全景hp女no学生

504体の仏像を有するボロ(寺)ブドゥール(丘の上)は、煩悩から解脱に至る3界を象徴的に表し、第1の基壇は煩悩の俗界、次いで未だ形にとらわれている5層のピラミッド、最後に解脱した3層の同心円壇ということだそうです。

上空から見た曼荼羅模様と、その多様な造形、数々のレリーフは、素晴らしいの一語です。

多様な造形hpレリーフhp

さて、ボロブドゥールは我がギョウ界ではピラミッドです(下図左下)。

pyramids[1]

www.IndoCropCircles.wordpress.comから)

グヌン・パダンなどと同様に雨や地震にも強い棚田式で、もとからあった小山に多い所で8mの土を盛った(Dunny Hilman博士より)上にあの見事な仏像、レリーフ等を作ったものです。

棚田田植hpボロブ構造hp

密林の中に約1000年眠っていた寺院を今のように修復された長い間の努力には、全く頭が下がります。

雨、地震に加え火山灰の降る地でもあります。凄いと感じたのは、中の小山の土の崩れから抜本的に修復されたということで、現在使われていない石も裏に保存されています。

修復hp石保存hp

ボロブドゥールは、小山に土を盛った基盤のあんこと仏像レリーフの表層の厚い1枚皮の言わば大福もち構造です。グヌン・パダンの場合は、その皮が時代を異にして少なくとも3枚重なってますので、修復も解明も容易ではないです。無論、大福もちの大きさも違いますし。

koridortimur.com

(koridortimur.comから)

注目点は、いくつもありますが、お釈迦様にどう結び付くのかという船のレリーフ(10枚)があるのをPhilip Bealeが見つけました。

香辛料シナモンの貿易でシナからアフリカまで活躍した甲板に小屋のあるその帆船を復活させ博物館にしています。アジアの楽園、万年前から世界の中心・中継の海の民のここの人らしいところです。

philiphp船小屋hp

ここに来て感じましたのは、万年の昔からグヌン・パダンの人々がゲデ山に対するように、此処の人々はムラピ山に対してきたことです。

マラッカ海峡もスンダ海峡も陸地だった正にアジア楽園時代は、共にインド洋に面する世界に開けた賑わいのマチの奥ノ院にあります。

そして、古来の精神性の代表である「山岳信仰」は違う、正しくは荒ぶる天、神に祈る「活火山信仰」だと感じました。

それは、厳しい火山被害罰と水の恵みの両方を有する祈りの対象です。大昔の人は、休火山も死火山も分からず、やがて区別なく山岳が祈りの対象に成っていったのでしょう。

火山灰hp

最後に、アジアの楽園の人たちは聖地の上に時代を異にして築造します。聖地の言い伝えだけは語り継がれるからでしょう。

パンフレットには、ボロブドゥールの内部には何もないと書かれていますが、その立地、周囲の状況から基盤となった小山は聖地だった可能性があり、何かがまだ内部の奥に眠っているのではと思いながら帰りました。

建物全景hp

下記のニュースを見て、四国の伊予とアジアの楽園ジャワにある巨石遺跡、ストーンヘンジを想い出しました。

英ストーンヘンジで夏至の祭り、神秘の現象に2万3000人
2015年06月22日 発信地:ウィルトシャー州/英国(AFP BBNewsより)
(2015年6月21日撮影) (c)AFP/NIKLAS HALLE’N
英国の古代遺跡「ストーンヘンジ」で行われた夏至の祭典で日の出を見る人々(2015年6月21日撮影) (c)AFP/NIKLAS HALLE'N

集まった人たちの賑やかな祭りと、太陽光と巨石の関係の写真を見て、eブックランドの横山熱血社長を想い出しました。地元の新聞にも採りあげられた伊予の巨石遺跡の意義の認識に対する広がり具合に歯ぎしりされてましたので。

eブックランドでは6年前に瀬戸内海の巨石遺跡は古代の人工的な建造物ではないかと書いた「伊予のストーンヘンジ」(篠澤邦彦著)を電子と紙で出版しているが、広がりはもう一つだ。

ところが、皆さん、そこは人類の百貨店、アジアの楽園ジャワの倉庫にもほほえましいストーンヘンジ(Batu Solor 東ジャワ) があります。レバッ・チベドゥ遺跡(ジャワ島西部バンテン州)には、ピラミッド後方にストーン・サークルがあります。

当地や日本にも多くある太陽の運行と関わりがあるとみられる巨石建造物は、観測のほか、お墓という見方も出ています。あのトルコのギョベクリ・テペ遺跡もお仲間でしょう。

◆メソポタミアより古い遺跡がジャワ島にあった!◆
電子書籍の入手については、こちらをご覧ください。

アジアの楽園 探訪記

20万年前頃アフリカで誕生し海産物も食す現生人類の部族は、海水面の低下(約130m)した紅海及びホルムズ海峡を越え、8-6万年前頃、インド亜大陸西部地域に達したとみられています。

東方へは、海水面の低下により出現した広大な海岸地域を移動し、7-5万年前頃にスンダランド、4万年前頃には海を越えてオーストラリアに達し、また、北方の沿海州にまで進出しています。

東方への進出は、西の欧州よりも速度が速かったようです。

人類no展開

東ジャワの現生人類ワジャック人は、4万から1万1千年前頃の間、また、マレーシアのサラワクのニア人も4万年前頃とみられています。

ワジャックとは、山、盆地のある場所の名称で、あのジャワ原人のいたソロ、サンギランの南東に当たり、ワジャック人は最初、山の斜面で発見されました。その後も他の場所で新しいものが洞窟などで発見されています。

wajakの山

この時代の現生人類は、熱帯地域の保存がきわめて難しい状況の中、タイ西部からパプアに至る広域で発見されています。従って、スンダランド全域に存在していたと考えられます。

新人no発見

ワジャック人について言えば、彼らは混血で中国人やオーストラリアのアボリジニの特質も示しています。長期間存在し、日本にもその形質の影響が及んでいます。

Paul Stormは、ワジャック人の頭骨はがっしりした中石器時代のもので、その後の世界的な人類の小型化に合わせつつ、現在のジャワに住む人たちに繋がる祖先と考えています。

ワジャックno頭骨

重要なことは、ワジャック人が4万年前頃現れているので、人類の展開のかなり早い段階から北方の人種と南の人種がスンダランドで混合していたということです。

それはまた、スンダランドへ南下した人の波がおそらく1度や2度のものでなく、人の数も相当の数であったことが、混血の影響から窺われます。

特に、2万年前頃の最終氷期最寒冷期や1万3千年前頃のヤンガー・ドリアス寒期の北方の寒冷の影響は大きかったでしょう。

彼らは、暖かく食糧豊富なアジアの楽園スンダランドに来ざるを得なかったでしょう。そして、北方が暖かくなれば、また、北上した者も多かったでしょう。

この北と南の全く生活様式の異なる人々の南での融合は、生活技術の融合をもたらし、人種の坩堝スンダランドでの文化を発展させていったことでしょう。

私は、ワジャック人が3万年にわたり長期存在したことや日本にまで影響が及び、また、現在に繋がっていることなどから、楽園で大きな存在だったろうと考えています。

但し、スンダランドの人々の「サラダボール」の具体的なイメージは、将来更に実証成果を得て形作られることになります。

これらのことから、メソポタミアに始まる人類文明史の前の段階におけるスンダランドの重要性に着目すべきと考えています。

It is said that Homo sapience get out from Africa to Eurasia in 80,000-60,000 years ago and probably reached Sundaland in 70,000-50,000. The sea level was lower 130m than that of nowadays.

They proceeded along vast seashore toward East. Then they crossed eastern straits upto Australia by 40,000 years ago and also went upward to north.

It was faster to East than West Europe even though it needed to cross straits.

人類no展開

Homo sapience Wajak Man, in East Java, is thought to be existed from 40,000 to 11,000 years ago and Niah Man, in Sarawak Malaysia also from 40,000.

Wajak is mountain and basin place name and Wajak Man was inicially found in slope. It’s in the southeast of Sangiran, Solo.

wajakの山

Homo sapience of this age were found in many places in spite of difficulties for finding in this tropical region.  Those are from in west Thailand to Papua in the east. So, it seems they had spread over Sundaland.

新人no発見

As for Wajak Man, they were of mixed parentage and show both characteristics of Chinese and Aborigine in Australia, too. They had long existed and spreaded even to Japan.

Paul Storm insists that the most likely interpretation is to consider the Wajak skulls as Mesolithic robust representatives of the present inhabitants of Java after with worldwide decrease in size of the human body.

ワジャックno頭骨

Important thing is, mixture of Homo sapience in North and those south locals occured in Sundaland in fairly early stage of human’s spreading deployment as Wajak Man appeared in 40,000 years ago.

It also means that wave and numbers of Homo sapience in North coming down to Sundaland were big enough to make such influence. It was not once, but many times in tens of thousand years because of very cold climate in North.

Thay can’t help coming down to warm environment of Paradise in Asia. And when it became rather warm in North, some went upto it.

Mixture of Homo sapience of quite different each way of living must have mingled technique and developed culture in melting pot-Sundaland.

I think Wajak Man were a big player in Paradise in Asia-Sundaland because of its long existence, spreading even to Japan and ancestor of modern Java people.

But, a bit concrete salad bowl image of Sundaland people should be formed with more evidences in future.

We should pay more attention to Sundaland as a fore stage of Mesopotamia Civilization.

Sangiran is located in the center of Java Island, Indonesia. There is the World Heritage of Homo erectus Java Man.

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I moved around there by biketaxi and visited modern museums.

Here and there, houses of local villagers are seen. After a while, biketaxi stopped and I saw the path is destroyed by intense flow of stream. No way, we took a rest.

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I talked with my driver and a young shop owner for coffee. I asked them, ” Are there any caverns ?”, then replied ” No, not at all.” Surely, Java Man couldn’t have even made them in this region because of the soil, I noticed.

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Textbook in school gives us image that Homo erectus and even Homo sapience in stone age had lived in caverns.

But, there are no caverns at all for many Java Man lived nearby river stream. That’s why they seem to be existed just as standing or sitting though I know they were hunter-gatherers among many kind of large animals.

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Museum can’t show their real life to us because of no evidence. But, it can’t help showing wrong image widely.

No clear evidence doesn’t mean no existance, as discussion on dark matter in universe.

Museum kindly show us only French example, with humble cottage and fire of Homo erectus’ life.

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It seems to me natural that even in other countries’ case, numbers of suitable caverns nearby river stream doesn’t fit to those estimated of Homo species. Anyway, most of them must have lived outside caverns.

Now,we have to change image of their life in cooperation of all fields of science. And it’s not a minor difference between life in cavern and that of humble cottage even if they were moving around place to place by the age of settling down.

Analogy is as like difference of life in a bit isolated fort on a hill to that in social environment of plain. The latter could be shifted smoothly to next step of life in settling down.

Then, I think that the amasing megalithic culture of Gobekli Tepe in Turkey, 11,500 years ago, won’t be so surprising to us. Situs Megalitik Gunung Padang in West Java, too.

What should we image about their life in plain ?

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It’s not their responsibility, but our’s.

Next, I won’t touch upon Florencians, but on mysterious Homo Sapience Wajak Man・・・. The place is in East Java not so far from Sangiran.

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断食ラマダン

カテゴリー: こぼれ話,当地事情

18日から1ケ月間、当地で実際に見聞するイスラム教徒のラマダンが始まりました。特にコーランを意識し読み、日の出から入りまで飲食、喫煙などを慎しみ神の恵みに感謝します。その前後である、早朝、夜間には若干食べています。

早朝特売はルポしましたが、日中の通りの屋台は、休業状態です。それでも洋風レストラン、目立たない立地の店などで異教徒が食べるところはあります。

この時期は、関心が神に向いているためと食べてないという大義名分もあるのか、仕事はスローになりますので、日本人の管理者は、やきもきするでしょう。我々の許可申請などもその影響を受けます。

日没後、街に夕食に出たら断食後の食として普段は見ない日本でいえば白玉とバナナを甘く似たものが売り出され供されていました。胃にやさしく栄養もいいのでしょう、やはり、万年のバナナの登場です。

断食日没食

そして、1ケ月先のラマダン明けのお祝いに備えて、店の柱にペンキを塗って準備を始めたところもあります。

ジャワ原人の里(博物館の表現)は、ジャワ島の中央部ソロの北20kmの川と平野のサンギラン地域にあります。

バンドゥンからジョグジャ(独立時、蘭に抵抗する一時は臨時首都)、ソロへは長距離バス、ソロからサンギランは市内バス、そしてサンギランと書かれた門をくぐってからはバイクタクシーで動きます。

バイク運ちゃんに、まず発掘現場に向かい、次いで博物館へ行ってくれと言うと、遠いだろう、雨で土砂崩れが起きてるとか渋ってました。物価安のソロで破格の数字(1,000円)を巡るやりとりとなったので、剽軽さが戻り動き出しました。

運ちゃんは途中、マンモス象が外に飾られている新築博物館で聞き、細いコンクリート道を曲がりくねりながら灌木の林を進み、2つ目の新築博物館を過ぎて一寸行ってダメだとなりました。鉄砲水で道が壊されています。

やむなく小休憩のコーヒーにし(彼らはラマダン)、運ちゃんと店の村人に聞きました。

洪水破壊 村人

「この辺に洞窟はありますか?」

「ないね~。」

確かに子供のころの経験から、こんな所の土質で横穴洞窟を掘ったら雨が降らなくても落盤しちゃうなと思いました。

崖状況

それでは、どういう環境だったのだろうと言えば、博物館の展示では、今より植生は少なく、ライオン、トラ、サイ、ワニ、野牛など多くの動物がいたようです。

環境

ライオントラ サイワニなど

サンギランでは洞窟は描けず、何しろ証拠がないので、立ったり座ったり所在なさげです。もっと多くの老若男女がいたはずですが、皆、こうだったんでしょうか。コワイ動物もいますし、夜はくる、時に雨も降る、家財道具もあったでしょう。涼しい朝夕に動き回り、暑い日中の時間は休んでいたでしょう。

原人様子原人家族

展示に近づいて聞き耳たてれば、原人たちもバカにするなとブツブツ言っているようですし。

それではどうも変だということで、フランスでは、原人も木と石で粗末な小屋を作り、火を使っていたという例が紹介されています。

仏粗末な小屋

生活の場である遺跡は、既に報告したタイのバンチェン遺跡もここも川そばです。そもそも見つかっている遺跡から原人の数を推測すれば、洞窟のある他の地域でも、水が得られ食料を得やすい川そばの都合のいい洞窟の数及びスペースとは全く合わないでしょう。

遺跡の位置

狩猟採集、漁労では、あたかも休耕田するように川そば各地を転々としていたとしても、そこでは今に通ずる根拠のある暮らしをしていたでしょう。

狩猟と採集魚獲り

(上記の資料写真は、ジャワ原人博物館から)

火と道具を手にした数十万年前の原人はもとより、アフリカを出、複雑な言葉を身につけ更に進化していた数万年前の現生人類は、洞窟ではなく主に川そば平地に居たとイメージを修正すべきでしょう。洞窟に住む者もいたということです。

証拠が残り易い洞窟から、見つけ難い平地への生活イメージの転換は、例えれば防衛という軍事的な山城から、軍事に加え統治管理の社会性を有する平城に移るくらいの大きな意義の違いを時代の見方にもたらすと考えます。

大半が平地で生活していたとなれば、縄張りなど隣近所との様々な課題・問題を生じ、社会の階層、交易や冠婚葬祭、争いなどの相互の関係の処理をもたらし、文化・文明への助走です。家畜やバナナ栽培も始まっているでしょう。

驚くべき巨石構造物を造り、見事なレリーフを残した11,500年前頃のトルコ東南部の石器人によるギョベクリ・テペ巨石遺跡は、平地で暮らした彼らが、助走からいよいよジャンプしたかという様子を示しています。

3月末、当地科学院LIPIで開催されたグヌン・パダン及びギョベクリ・テペ合同実証セミナーで、そう実感しました。

ギョベクリ研究会

「先生、ずっと大昔は北京あたりと中ジャワにしか
  人は住んでいなかったんですか?」

「人と言うより、正しくは類人猿、話は原人についてだね。
  そりゃ、ベトナムやタイやあっちこっちにもいただろうね~。
  西ジャワにもね。

  当時は、今の南シナ海、まあ南シナ湖を囲んで正にASEAN諸国
  や台湾などの地域が、みんな陸続きだったからね。」

「じゃ、どうして教科書にそう書いてないの?
  なのに、先生はどうして分かるの?」

「他のとこは証拠が見つかってないんで、書けないのさ。
  証拠が見つかるってのは大変なことなんだよ。
  先生が言ったのは、ま、大人のジョーシキってやつだね。」

注;当時は(今も)、10万年くらいの周期で寒冷乾燥と温暖湿潤を繰り返していました。寒くなれば広域に氷河が形成されて海水面が低下し陸地が現れ、逆に暖かくなれば氷河が融け雨も多く降り、大量の真水が海水面を上昇させ時に大洪水を起こし、これらは地震や火山噴火にも影響したとみられます。

楽園数十万年 南シナ湖 時代

sundaland asean地域

現生人類アジアの楽園・スンダランド時代

一般的には、寒くなれば北から動物も人も大量に南下し、暖かくなれば北上することを繰り返していたことでしょう。いつの時も環境に恵まれていた(災害を除き)アジアの楽園は、混じり合いと動きの賑やかなことであったでしょう。現在は、南シナ湖あたりが騒々しいようです。

「ふ~ん。ところで、向こうの建物の教室の前に白髪のひげの
  おじいさんがアッカンベーしてるポスターが貼ってあったけど、
  あれ何ですか?」

「あれか。もともとあっちの建物は、風呂入ったら湯がこぼれ
  ちゃたとか、リンゴが丁度落ちるとこを見たとか、たわいもない
  ことで大騒ぎしてきてるんだ。

  一寸前は、光が曲がる~なんてわけのわかんないことを言い出す
  やつがいて救急車を呼ぼうかってなったが、その必要はなさそう
  だとなり、むしろ今は見直され落ち着いてるらしい。それだろう。」

「なんか、大昔好き人間でジャワへ行った人が洞窟が無い、洞窟が
  無いって騒いで連絡してきてるらしいですよ。」

「ああ、聞いた。家の人たちは大丈夫です、心配要りませんって
  言ってるらしい。
  いろんなのが居るからね。宇宙は爆発だ!なんて岡本太郎みたい
  のもいて、学部が崩れると職員会議で話が出てた。

  あっちは、ま、玉石コンコウってとこか、中にはほんとに
  オカシなのもいるかもだからね。あまり近づかない方がいい。

  君もぼんやり空なんか見てないで、早く宿題やっておカアさん
  をイラつかせない方がいいよ。」

「はい、分かりました。」

(写真図表は、ジャワ原人博物館から)

当地の大多数であるイスラム教徒の大きな年中行事のラマダン(日の出から日の入りまで断食)月が始まる前日17日に出発し、始まった翌日に帰る長距離バスの旅をしました。

リュックを背負い肩に力が入って西ジャワを回った1年前とは異なり、今はほぼ通学の格好・荷物です~と出かけました。

距離の長さで途中の町の様子を、そしてラマダンの始まりの時期であるのでその様子をということです。

バンドゥンから東南に向かう中部ジャワ州、ジョグジャ(-カルタ)へのバス旅は、市内の東部から発着する分かり易いものです。

途中の大休憩を入れて往きはジョグジャまで13時間、帰りはその奥のソロSoloから15時間でした。それでも、上窓からの自然な風、2人用席を一人で、道が舗装され渋滞もなく、景色を観たり帰省の女子大生さんなどと話をしたりで苦にはなりませんでした。ともかく何でも初体験ですし。

長距離バス途中休憩

現代の街道沿いでしたので、店、イスラム教会、学校、官公庁、田畑、川と橋、山々、曲がりくねる山道、など西ジャワ州とそれ程の大きな違いはありません。

西ジャワの川は非常に深い谷が結構ありますが、中部ジャワの川は深くないです。

私にとって一番の違いは、屋根がトンガリ2段なのは類似ですが、千木を見ませんでした。

伊勢神宮・出雲大社などから、ラオス、タイ、西ジャワで見る建物上部の千木は、山道の州境を越えて中部ジャワに入ると見なくなりました。

そこの部分にアクセントがあるものがみられ、最早、千木ではないですが、この変化もまた興味深いです。

トンガリ屋根

そして、この州境はスンダ人とジャワ人の分け目でもあるところが、意味がありそうです。

さて、ラマダンが始まり、日中は屋台が閉店または開店休業してますのではっきり分かります。(それでも開いていて異教徒が食べる所はあります。)

早朝の暗い中、帰りを歓迎されていると錯覚するような灯りが通りに煌々とつき人々で賑わっていました。各地で同様の特売(日中は高い。)だそうで、夜明け後も我がバス停の上では続いてました。私には、師走の晦日あたりの感じです。

ラマダン店2夜明け特売

そして、今回、世界遺産ボロブドゥール、百万年前と言われるジャワ原人のいたサンギラン、何故か中米マヤのピラミッドと酷似していると言われている不思議なスクー寺院(修復中)と、人類の百貨店の主要階を観ました。

ボロブドゥール ボロブドゥール

ジャワ原人博物館 サンギラン

スクー寺院 スクー寺院

私にとっては、やはりバスを乗り継ぎバイクタクシーに乗り田舎の奥に行ってみて初めて分かり、感ずる大きな発見!が、それぞれにありました。次回から報告いたします。

先日、バンドゥン北方の行楽地で西ジャワ州教育局が主催するスンダの言葉や芸術の振興を図る催しに招ばれて観る機会がありました。

伝統の踊りや新たな装いの歌が披露され、州内各地の生徒たちのチームによる歌合戦もありました。

会場は満員で、地域の人々は廊下も埋め尽くして観ていました。若い生徒さんたちが多かったので、踊りの男女の絡みの場面では大歓声に包まれました。

踊り 歌

参加チーム 男女踊り

会場入り口では、分厚いスンダ語の辞書や人類の百貨店らしい多さを誇る民話が沢山並んで売られていましたのも印象的でした。(英)オックスフォードのOppenheimer教授が、大洪水話など世界に拡がった当地の神話・民話も一つの要因として、アジアの楽園を始源の意味を込めて「東のエデン」と表現したのもうなづけます。

民話

このように、国の統一をしっかり強調し施策している一方、失われていっている地域の言葉や文化を大切にして何とか伝えようと努力されていることに感心します。お国も町興しが課題のようですが、まずは伝統を見つめることからと思います。

そして、私は動き回れば、あ、ピラミッド山だ、バンチェンでも見た2段屋根だ、となります。タイ東北のバンチェンとバンドゥンの言わば郡部の一部の家の伝統的な造形の類似性に、旅したアジアの楽園内の距離の遠さを思うと不思議な気がしています。

ピラミッド 2段屋根

 タイ東北のバンチェン遺跡は、1967年のテストサンプルの測定で7,000-5,000年前と出ました。その後、定住し始めた人々は、5,600~1,800年前頃まで文化の華を咲かせていたとされています。

最初の発見は、1957年に自宅建設中のお医者さんが彩色された土器壺を見つけて学校に贈り、その後も見つかった古い土器は学校に展示されました。

66年に米ハーバード大の学生が人々の生活の調査に来て多くの土器片を地上で見つけてタイ美術館長に届け、館長はタイで見たことのない先史時代の遺物と判断し、テストサンプルを米ペンシルベニア大に送り、前述の測定結果となりました。

バンチェン遺跡と言えば、ユニークなデザインと鮮やかな彩色の土器類です。

陶器

ところが、82年からのペンシルベニア大とスミソニアン博物館による米国巡回展示のタイトルは、「バンチェン-失われていた青銅時代の発見」でした。

青銅

青銅文化は、5,000年前頃中東で始まり、2,500年くらい遅れて東南アジアに伝わったという定説の大変更を迫る発見の衝撃でした。バンチェンの物は、この遙かな遠隔の地で5-4,000年前頃からのものです。

それは、その後の鉄器時代をも経た連綿と続いた文化であって、東南アジアに対する見方、認識を大きく変えるものでした。

銅は周辺の地域から、錫は、ラオスの古都ルアンパバーンや現首都ビエンチャン地域からのものとみられ、タイ-ミヤンマー国境地域からのものも考えられるという広域にわたる交易状況も明らかになっています。

そして、これらメコン川流域のラオス大都市の何千年前からの由来も想像させます。

中東から伝わったのだろうか、楽園発だろうか、タイ東北の楽園の一隅だけのことだろうか、楽園の他の地域や沈んでしまった楽園中央はどうだったのだろうか、考させられます。そして、昨年末の期末試験後に飛んだ錫の名産地、ジャワ海のブリトゥン島が想い出されます。

来年、日本で開かれるサミットの開催場所は、日本の美しい自然と豊かな文化、伝統を感じていただける場所として伊勢志摩に決定されたというニュースを見ました。 既にわがe-ブックを読まれた方はお気づきのとおり、私は伊勢神宮などの千木が、アジアの楽園内では普通に見られる点に注目しています。

「人類最古の文明『アジアの楽園』探訪記」(広報配信中)こちらをご覧ください。

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皇大神宮(ja.wikipedia.orgから)屋根の前後の千木

e-ブックで紹介しましたほかにも、例えば西ジャワのスカブミの古いオランダ洋館でさえ伝統様式として千木が見え、タイ・バンチェンの例もお伝えしたとおりです。

スカブミ洋館 格物館前タイ土産店

西ジャワ・スカブミの郷土資料から    タイ・バンチェン博物館前の土産物店

因みにスンダ゙のある人は、これに関する我が質問に対し、スンダ語で木が二股になっているのをチゲというそうです。私は関係あると思っています。

この類似性について、研究された資料は無いのではと思っていますが、この点を是非踏まえた上で誇るべきお国の施設に各国の首脳をご案内していただきたいと赤道を越えた島から気にしております。

いよいよ本題に入ります。まず、最初に感じましたのは、副題のとおりです。プミポン・アドゥンヤデート国王(ラーマ9世王) (1946年6月即位)は、考古学や博物にもご関心を持たれて各地をご訪問されていますが、1972年3月、妃殿下とともにバンチェン遺跡の発掘現場をご視察されました。

「それらの貝は、淡水からか海水からか分かっているのか?」

「遺物は発掘現場で見たいと思っているが、何故、これほど多くの遺骨や彩色土器が出てるのか? ここは墓か?」

「赤く彩色された土器は、焼いた後で彩色したものだな?」

「遺骨の年代測定は、できてるのか?」「バンチェン遺跡は、国際的な関心事であり、年代測定には、皆の協力と参加が期待できるし、より信頼度が増すだろう。」

「この遺骨が第1、第2ピット(穴)よりも古いというのは、深いところにあったからということか?」

「ここに居た古代の人々と200年前にここに移住してきた人たちに何か関係はあるのか?」

国王と妃殿下のご視察は、遺跡が特筆すべき国家的な考古学遺跡であると関係者に認識させ、それらの協力、バンチェン遺跡の永続的な保存と発展を呼び起こすこととなった。                                      (バンチェン国立博物館ガイドから)

国王と妃殿下のご視察は、74年米ペンシルベニア大学との共同調査、75年国立博物館開館、80年ニュージーランドの大学の調査参加、ハワイ大学の遺骨調査、82年から4年間の米国巡回展示、次いでシンガポール展示、83年ケネディ財団の博物館への資金支援と国際化し、92年、遂に世界遺産に登録されました。

2006年に博物館はリニューアルしていますが、現場の考古学調査の状況も展示されています。現時点、東南アジア最古の遺跡の世界遺産です。

BT舘入口 博物館敷地 展示 人骨現場展示 見学奈良青銅器 土器など

なお、敷地にたなびくタイの国旗が、インドネシアの紅白国旗を2つ上下に置き中央に幅のある青い帯を入れたものだと気づきました。日本は白地に赤丸で、3者が類似の親戚ものだとあらためて感じました。

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