日本に関わる現生人類・新人の東アジアへの拡散は、①北ルートと南ルートが言われていますが、最近のDNA分析で愛知・伊川津貝塚・縄文人骨、北京近郊・田園洞人(河川食が注目されている)、ラオス古人、アンダマン諸島人などの類縁性が明らかになって補強された南ルートに注目です。

考古学的にも、既にインドネシア・スマトラ島の人の歯やフィリピンの古人の動物骨に残された痕跡等と周囲の分析を含めた年代発表などでも補強されており、中国湖南省の福岩洞人も始まり時代の古さとされています。一方、北ルートは、カラ・ボム遺跡やマリタ(マルタ)遺跡(2名の日本学者は、南方系との指摘)などがありますが、実はA:北の始まり時代の石器の拡がり状況から曙海・日本海には達していませんので、日本への渡海問題への関りは言えないのです。注目は、B:南ルートの「亜寒帯入り」で、やや温暖な時代だったと思われますが何しろ氷河期の事、裸体に近い暮らしをしてきた南方人が、福岡や熊本でも雪が降りますから環境の激変に衣食住の面で対応したことは特筆されます。そしてC曙海の畔から内陸に向かった人々と対馬海峡を渡った人々の分かれた拡がりは、その後の歩みを大きく異にしていきました。②曙海西岸地域では、田園洞人時代から多くの遺跡が発掘され、A:出アフリカ後に分かれて北上した人々の北ルートは、指標となるカラ・ボム遺跡(4万年前頃)の類縁を見ても曙海や日本海には達していないのです。決定的に南方人の北上を示し稲作で重要な河姆渡遺跡が沿岸で発見されて世界の黄河文明史観を覆しました。B:古代国の燕、呉越は正に万年にわたり伸縮した曙海沿岸の民です。一見すると遠く離れた燕と倭ですが、海が縮まった時代には隣の親戚と思えるもので、山海経の記述も納得できます。始まり時代の沿岸民は、やがて、西北からのモンゴロイドの南下による影響を受けて戦いの時代が来ますが、この沿岸民の特性はDNAとは別に長く今も残っているようです。

さて、③東岸の日本列島史ですが、家族の40kmの渡海は大変重要な特性です。実は、舟を造り操作する能力は歴史の重要な特性となり、実証的に裏付けられたこの始まりの祖人の伊豆の海での行き来から縄文人、倭人・・・と、DNAとは別に言語・習俗の文化面で独自なものとなって行き、今や「縄文文明」とも言われています。そして、教室では全く教えられていませんが、B:北米・ニューメキシコ州において2.3万年前の子供たちと動物の足跡が発見されて新大陸史の定説が崩れ、北海道祖人が北上を継続して「最初のアメリカ人」に関わったのかが、近年指摘する学者やyoutube動画にも現れてきていて世界史界の注目なのです。「曙海」史観、分拡史と共に、日本人は何処から「何処へ」を生徒・学生に、世界に発信を。


4万年前の北京・田園洞人は、人骨分析により槍の狩猟族・ハンターではなく河川食の海民系で研究者を驚かせました。

図右上「倭は燕に属す」、古代史の燕と北部九州の離隔から不思議に思えることも、北上の人類史と「曙海」の沿岸・湖と河川網の「北東亜平野」史を知ればムリなく理解できます。議論の多い史上重要な稲作伝搬も、尤もらしかった「戦乱を逃れた大陸・半島人が伝えた」説は、最新の研究で弥生時代が300年以上早まって大陸・半島の戦乱難民の伝搬説は崩れ、曙海の畔の海民(①大挙でない五月雨で渡来した沿岸民、②目敏い海民である交易倭人)による普通の伝搬と考えられ、「戦乱を逃れた大陸・半島からの渡来民」は大きな誤解です。4万年前から古代当時の状況に思いを致せば、始まりの弥生人とは、倭・倭人であり国際性(今の海外行き来の東京中心部)ある「弥生倭人」と称すべきです。北陸の古人骨が大陸DNAに類縁という話も、よく調べれば北部九州からの移住民でした。土器に文様を付けてるヒマがあったら鉄鍬で田を耕せ、いい場所を収穫を奪おうという風潮の激動の時代へ。

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図左、そもそも曙海を見たこともない内陸の魏人・陳寿が、海南島の暮らしを倭人のものとする(確かに沿岸民の類縁性あり)など、基本に沿岸民・倭人蔑視の魏志物語を綴りましたが歴史フィクションであり、神武天皇の生駒挫折・熊野迂回の物語の方が古地形分析から世界的にも遥かに史実性が高いです。4万年前などよくわからないとして教えない教室は、日本祖史を教えない周回遅れのみならず、誤りの教科書認識で人生を左右する入試の出題をしている異常です。「最初の日本人FJ」と曙海・北東亜平野について、生徒・学生に世界に。

「最初の日本人FJ」First Japanese について、教育、論議の無い事は問題です。図右上①「約4万年前、陸続きでなかった対馬海峡(30-40km)を越えて、フネ(舟・筏)で、多くの家族が、北部九州にやって来て、列島に拡がり日本史が始まった」は、歴史考古学界の大勢が認める公理でしょう。

②伊豆の海の行き来は、一流新聞が謎と報じた偉業に見え、確かに3.8万年前の生業渡海としての行き来は世界考古学上の金メダルですが、屈強な男達だけで陸地が拡大していた当時は25km程度、黒潮分岐流もなく、行けば宝物の黒耀石のみならず海獣の魅力が有りましたので、謎ではアリマセン。3.7万年前の長野の高地で多様な石器が発見されて驚いていますが、「あかんたい!」に適応し対馬を越え、伊豆の海から宝物を持ち帰って広範囲で交換していたことなどを考えれば、千年後に高地に至り、環境に応じて種々の石器を工夫し製作していたことも理解でき、特殊な種族が長野に来たと言わなくてもよいでしょう。③南方のトカラ列島伝いに黒潮流を越えて沖縄に至ったことも、特別の民が南から黒潮に乗って来たと考えなくても、考古遺跡から導かれるように鹿児島から南下したことで理解できます。➃当時は海水面低下で狭かった津軽海峡越えに驚く人はいませんが、注目される道東を考えれば大間ルートは考慮されるべきであり、陸奥平野の青森は北陸と仙台からの人たちが合流したことに注目すべきです。南方人が雪と寒気の北海道にと驚く人は、大雪は降らなかったとはいえ寒かった北陸、オットセイなどがいた仙台で予行練習をしてきたことを考えるべきです。

そして、北海道は巷間のマンモスハンター渡来の痕跡は無く、先頃1.5万年前の黒耀石がザクザクで道内最古遺跡を有する帯広・道東は、国宝白滝遺跡の方向と千島列島に北上を継続したゲートウェイで、今、最初のアメリカ人候補として注目なのです。勿論、13世紀のアイヌ文化のず~~~と前に、山・川・鮭・オットセイ・・・祖語以来の名が有ったことでしょう。問題は、最初の日本人について説明、議論をしていないために、多くの誤解が内外に拡がり残っている事なのです。周回遅れの教室授業の現代化を。正しい日本祖史を世界に発信。

出アフリカから南方を経て北部九州に至る上での最も重要な事は、未だモンゴロイドが登場していない(2.5-1万年前登場、Dr.Howells)時代に、出アフリカ人・南方インマレイドをして「あかんたい!」と言わしめた特に冬場の亜寒帯の環境激変です。

図右Aやや温暖期とは言っても氷河期、宮城松島のような状況が生じたでしょう。南方の裸体の暮らしは全くムリで、衣食住の万般に大きな工夫対応が求められます。都合よく洞穴がそんなにあるわけではアリマセン。更にB、家族が40kmの海峡を越えるとなれば、鉄器の無い時代に石器や時に火を使うなど工夫して舟(筏)を製作せねばなりません。洞穴で壁画を描くのと海峡越えの舟を作るのとどっちが凄いのか?これら、図右下1.亜寒帯への適応、2.舟での家族の海峡越え、おそらく知恵袋の爺、重要なお産の助けの婆もきっと一緒だったでしょう。そして重要な事は、これらが示す複雑さを有する祖語の存在、単純ではない言葉によるコミュニケーションが推定されることです。巷間の北海道の山川の名はアイヌ語というのは誤りであり、13世紀にアイヌ文化が始まるず~~~と前、3.5万年前後からの北海道史に既に名前があったと考えます、これが科学。子供に、世界に。

FJ: First Japanese 約4万年前の海民家族の北部九州への渡海始まり(学界大勢)の歴史の先が、最新のDNA分析(1.愛知・伊川津貝塚人のDNAが南方類縁、2.北京・田園洞人4万年前は河川食だった)で補強されてきています。

①世界の人類史では、西太平洋沿岸海民(モンゴロイドは未だ登場せず、南方インマレイド系)の北上が考古学・DNAの有力ルートとして挙げられており、考古学的にスンダランド(7.3-6.3万年前)、ラオス(6万)、フィリピン(6.7万)などが報告されています。②ルートの細部は、当時の「パンカル海」の1.西沿岸と2.渡海したフィリピン・バシー海峡の島々伝い(日本祖人の渡海始まりから注目)が考えられ、台湾東沿岸で集約されます。「曙海」の島々の多い西岸・北東亜平野沿岸を北上、亜熱帯越えには適応に期間を要しやがて対馬海峡をフネ・筏で越えて緑の大地(五島~壱岐~出雲)に至ります。巷間の「大陸・半島から来た」は誤解で、朝鮮半島は無く山地であり大陸もその沿岸の北上です。③30-40kmの対馬海峡の家族の渡海は重要で、地中海では歴史時代になっても沿岸から離れておらず、西太平洋海民のフネ造り(鉄器の無い時代)と海流・気象を理解した操舟渡海の能力は、原始人ではアリマセン。北部九州から北海道、沖縄に拡がりますが、➃愛知・伊川津貝塚人のDNAが古い南方系に類縁なのは注目され、西太平洋北上ルート説を補強しています。ここで愛知東方である静岡の浜北祖人骨(1.8万年前)が、形質的に縄文人に繋がっていることが既に明らかにされており、対馬渡海と3.8万年前の祖人の伊豆渡海・3.7万年前の長野高地での多様な石器作りの祖人に挟まれた、3.9万年前頃の「三河祖人」から貝塚人への繋がりが推定できます。


バシー海峡や対馬越えを考えれば、新聞が謎と報じた伊豆の海における黒耀石採取の行き来25km(当時の陸地拡大、黒潮流無し)は謎でなんでもアリマセン。 やがて津軽海峡を越え、千島に乗り出していくことになります。問題は、このような事を教室で全く紹介されておらず、現下の賑やかな台湾・シナ海における情勢のみならず、東洋史の重要な歴史構造である「南船北馬」の理解が不十分な事です。抜本改革を期待です。

下図左、米軍はフィリピン北部のルソン島を重点に態勢を強化する。

図中、「最初のアメリカ人」問題の西太平洋ルート、ミッシングリンクのフィリピンで、北部のCallao遺跡が出アフリカ南回りの6.7万年前説(比・豪国立大チーム)。図右、日本史の始まりである約4万年前の南方系人の北部九州への家族渡海と、愛知県の三河・伊川津貝塚人DNAの分析(東京大太田・覚張チーム)が繋がり。東洋史は再び「新南船北馬」の時代へ。日本史は「室町」からで十分って、傲慢な井の中の蛙の周回遅れ。月にロケットが飛んでも人は6万年前とそうそう変わらない、いや、酷くなっているかも。ともかく教室で生徒・学生に紹介を、日本史の始まりを「最初のアメリカ人」で論議中の世界に発信を。

(人類史最前線) 世界が関心の「最初のアメリカ人」First Americans問題は、2.3万年前のニューメキシコにおける足跡発見(一昨年9月末)で、図下第1波の「マンモスハンター ・モンゴロイド の進入」定説が崩れ(Dr. William Howells, 米Harvard大)て論議中です。

そんな状況で、昆布ハイウェイ、沿岸ルート説を進めた①豊かな食である鮭に着目した、「海民の鮭追い進入」説が登場です。なんと、北京近郊の田園洞人、米ワシントン・オレゴン州境のコロンビア川そばで発見されたケネウィックマン、内陸の無氷回廊の出口で発掘されたアンジック族、などが河川食や海獣食などであり、狩猟肉食では なく、発見学者を驚かしれているのです。②出発ポイント(赤丸)は、鳥居龍蔵が明治時代に調査した北千島・占守島地域(カムチャッカ南端ロパトカ岬含む。千島列島とオホーツク北回りが合流))なのです。昨年、白滝祖代遺跡が国宝指定答申され、北上のゲートウェイの道東、帯広では黒耀石(1.5万年前)がザクザクの北海道史(3.5万年前後から)は、鮭はもちろんの事、青森と共に次の縄文時代遺跡の世界遺産という実証基盤がしっかりであり、世界の注目です。北方領土・国後では縄文人の親というべき万年前の祖人(Sojin)Proto-Japaneseの遺跡も発見されており、墓参のみならず学術調査が世界的に望まれます。他方、③北千島の遊動海民ルートンの舟も模型を製作して、千島・北方領土の遺跡・遺物を生徒・学生に世界に、一挙大々的に紹介して欲しいモノです。

図左、始まり時代は現出していた北東亜平野の諸所に、湖が、無数の河川があり、南方から北上して来た「北インマレイド NIM 」(分かり易く現代一例女性)が、沿岸・河川近くに暮らしていました。図右の伊川津貝塚人のDNAが南方アンダマン諸島人や田園洞人と類縁であるという分析から下図説が導かれます。

大陸・北京郊外の4万年前の田園洞人が、狩猟肉食ではなく河川食であった事が人骨分析で明らかな訳は当時のそういう状況の故です。朝鮮半島でその時代の関係遺跡の発見が少ない理由も山地であったためで、ここにあります。従って、我が日本史の始まりは、大陸・半島から人々がやって来たと言うのは誤解であり、標題となります。海民の家族渡海(30-40km)が始まりですから、3.8万年前の25km程度の男たちによる伊豆の海の行き来は、謎でも何でもアリマセン。また、造舟・操舟力から知的レベルも高かったことが分かります。図左、東洋史は後に、この平野大陸地が徐々に消えていくとともに西から狩猟族が、モンゴロイド(2.5-1万年前、Dr. William Howells-Harvard大)の大きな影響が及び、基本構造である「南船北馬」 (その後は、北馬内の争い) へとなっていく訳です。この始まり時代を認識することが、その後の歴史理解の基本でしょう。生徒・学生に教え、教室で論議を。


曙海の畔から北部九州に家族渡海して始まった日本史、1万年件を超える遺跡やDNA分析などから、特に愛知・静岡・長野・青森・沖縄・・と痕跡をうかがわせつつ北海道へ北上し沖縄へ南下、その人骨復元などから今ほのかに状況が見えて来ました。

狭くなっていた津軽海峡を越えた祖人Sojin/Proto-Japaneseは、道内最古級の遺跡を帯広・千歳などに残し、国宝指定答申の充実の白滝遺跡が注目されています。祖人は、北海道で留まる理由もなく「最初のアメリカ人」候補として食豊かな処女地の北上を続けたことでしょう。 米ニューメキシコ2.3万年前足跡の発見で定説が揺らぐ中、 周回遅れの教室論議を最新に!

世界人類史界は、東南アジア(アンダマン諸島~スンダランド地域)から南米(」モンテ・ヴェルデ遺跡、ブラジル人骨ルチア)迄が、2.3万年前の米ニューメキシコの足跡発見で見えて来て、図右、寒冷適応などのモンゴロイドではない石垣島祖人にも注目の新定説構築に検討中です。

そして、図左、重要なのは静岡・浜北祖人骨が、約4万年前の北部九州 から列島中の南北に拡がった祖人の状況である 石垣島2.7万、伊豆3.8万、長野3.7万、年前の祖人と繋がり、かつ、次の2代目の縄文人(1.65or1.5万年前、学界論議中)と繋がる実証のキーマンであることです。生徒・学生に教えるだけでなく、世界史界がこれらの詳しい説明を待っているのです。一番の問題は、祖人に対し祖先という認識が弱く、祖代Sodai、祖人Sojin/Proto-Japaneseの名が今もって無いため軽視されている事です。これは世界の驚きです、国宝級の遺跡遺物と語れる史実なのに!

今、足跡衝撃で学界はし~んとしています。先生は、それは未だはっきりしないから教えないとして始まり時代は原始扱いでさらっと通り過ぎていますが、確かとして教えてきた種々の説明は、米ニューメキシコの足跡(2.3万年前)に踏まれて崩壊しています。

肝心の暦年代(実際の年)は、資料の新旧、測定法による結果の較正など研究発表における年代の不整合という問題は 未だ ありますが、①時代は、花粉分析の気温模式によれば旧定説の「一山前」の比較的温暖期で、②ベリンジア大陸地ではなく、シベリアとアラスカが断続的に繋がった状況(フネで渡ったのかもしれないとすら)であったのです。「アラスカ以南が大氷床で塞がれ、数千年間、ベリンジアで滞留standstillしDNAに変化を生じた」という尤もらしい説明は怪しくなり、前方は開かれており普通に少数が拡がりました。③実はロッキー山脈には#1無氷回廊がありましたが、進入して来たのはマンモス・ハンターではなく(発見石器ではムリ―実験考古学、発見内陸人は河川・海岸食)、温暖期であり沿岸ルートもあり得ました。いずれにしろ寒冷等で身体が変化したモンゴロイドはこの時代にはいませんでした。他方、足跡から中・南米南部(1.45万年前モンテ・ヴェルデ遺跡)までの南下速度は、説明されていた沿岸超特急などではなく普通・鈍行でした。このベリンジア及び南米への南下の拡がり状況を踏まえれば、出発候補地(シベリア・ヤクーツク、オホーツク西湾、北海道)から、「普通」の速度で移住(ムリなく)したものと考えられますので、北海道の「道東ゲートウェイ」などの候補地における考えられる当時の状況が重要です。はっきりしないからなどと言って軽視・放置せず、生徒・学生に最前線の諸説(その時点で確からしい)を紹介し将来に期待すべきです。


米ニューメキシコWhite Sands2.3万年前の足跡の衝撃の意味は、図右Aモンゴロイド化したアジア人の居無い(南米第1波ルチア、Harvard医科大のDNA調査結果等とも符合)時代を発掘したものなのでした。

アフリカを出た現生人類・黒人は、寒さ・吹きさらしの強風・降雪などの厳しい北の環境に適応し、容貌・身体を変化させましたが、2万年前頃の比較的新しい時代の話(米William Howells)です。米足跡はまた、始まり祖代における人類の移住のペースを考慮すれば、Bアラスカ拡がりは氷期最寒期(LGM、2.5万年前頃)以前で北米大氷床に沿岸か内陸の通路のあった時代(細部 次回)となります。それは浅い水深に生じたベリンジア大陸地ではなく、現在に類似の環境でマンモスの食糧たるステップ草地のイメージとは異なり、渡った種族はむしろ舟を伴った暮らし振りの可能性(伊豆海で活躍の子孫、北海道祖人は候補)が考えられます。いずれにしても、これらの状況を考えれば、ベリンジア・マンモス追いイメージの定説は崩壊し、また、アマゾン古部族とアジア南方・豪の古部族DNAが類縁であると言うハーヴァード医科大の放置されてきた調査結果も不思議でなく理解できる解法が見えてきました。渡米進入であるベーリング海峡地区における新たな始まりイメージ図が待たれる状況なのです。

学界の列島1万件を超える祖代(旧石器)遺跡の発掘と分析は、地域断トツの充実です。

重要な東部アジアからアメリカ新大陸への世界先史始まり、その中でA:地域最古の石垣島祖人骨の復元は、B:約4万年前に家族が北部九州に渡海し、南下して五島~九州西岸~沖縄へと曙海東岸地域を移住したと考えられる事から当時の南方系列島祖人の代表例として、北京郊外の田園洞人骨(愛知県伊川津縄文人とDNA類縁)が河川食であったことと共に、モンゴロイドではなかった「北インマレイド」NIMを示す意義深いモノです。C:3.8万年前から伊豆の海を舟で越えて神津・恩馳島に黒耀石を採取に「生業渡海」した行き来は意義深く、新聞でその古さと海越えの白紙距離から謎と報道されましたが、①そもそも始まりが対馬に30-40kmの家族越え、②当時は海水面の数10m低下で島陸地が拡大しており、島の砂浜では舟を引いて歩けば、実質越えは最大25km程度で対馬渡り以下、しかも屈強な男だけ。③黒潮は当時四国沖で去っていたので漕ぎも楽、謎ではアリマセン。縄文時代には、東伊豆・河津町に黒耀石加工作業の工房までありました。この切れ味鋭い黒耀石(同様のサヌカイト石)へのこだわりは、列島中で見られ、D:国宝指定答申された遠軽町白滝遺跡群の物は樺太や山形でも発見され、先頃、帯広遺跡では大量に発見されてニュースとなりました。長野も大産地で、石器については3.7万年前の多様な物が発掘されています。

世界に貢献すべく、 また、「日本人、何処から何処へ」の解明のためにも 東南アジア、南米などに研究者を派遣すべきです。状況を生徒・学生に教え、世界に発信を。

図上中、米ニューメキシコWhite Sandsの足跡の衝撃は、単にアメリカ新大陸史を数千年遡らせるだけではないです。ジンギスカンに肝を冷やした欧米先生が、大雑把に「モンゴロイド」の語により一色で塗りつぶした、 始まり時代の歴史認識を変えるモノなのです。

上図地域の①始まり祖史の第1、第2の時代段階的で、②南北の空間的な拡がりの2構造が見えて来ただけでなく、③モンゴロイド化の歴史的な意義やそれにおさまらずに軽視・放置されて来た中・南米祖史に光です。それは、2.3万年前の足跡にまで至った歴史、更に拡がった歴史という訳であり、それらの中で東洋史、日本史も始まり時代の状況を人類史に位置付けて認識できるようになる、史観のたたき台が見えてきました。7-4-2説、図左、出アフリカ後7万年前のモンゴロイドと称すべきではないインマレイド、緯度を北上した4万年前の(北部九州への渡海の民、北京郊外の田園洞の河川食人、2.7万年前の石垣島祖人とあまり変わらないような人々)北インマレイドNIM(North-InMalaid)、東進してシベリアトアラスカを繋ぐベリンジアBeringiaから大氷床Ice Sheetを通過(沿岸及び内陸の無氷回廊Ice Free Corridor?)し、ニューメキシコWSに足跡です。他方、図右、東部アジアでは2万年前の北の寒・風・雪の厳しい環境に適応したモンゴロイド化とその拡がりが、アメリカ新大陸では中南米への南下拡がりというわけで、図写真の人々全てが祖史に位置付けられて認識できます。そして重要な事は、よく見ればモンゴロイドの方が祖史の一コマなのです。因みに最近賑やかな「インド・太平洋構想」という論議、万年前の話ですか? ともかく教室で祖史・祖代・祖人について東部アジア・アメリカ新大陸史をしっかり生徒・学生に教え、国際共同研究で実証論議を深化させましょう。

一昨年9月末に発表のニューメキシコ2.3万年前の足跡の衝撃(図右上)は、1年以上経ってもまだ定説のシベリア系という事で漠然と放置され、大きく時代を遡らせたにも拘らず、Who?に全く説が出ていません。「足跡人」は現生人類の最後の拡散・移住のピースを埋めるもので、この解明は他にも影響する大きな問題であり重要です。結論的に、下図の写真のような関係の人々の世界(処女地の可能性の中南米を分かり易く参考付加)だったという事で、標題となります。

モンゴロイド(米W.Howellsのモンゴロイド起源説から解釈)と白系人(8,000年前~)の登場しない このような図は、巷間・教室に全く現れず軽視されていますが、長い時代でしたのでその影響は実は大きく、南北アメリカ大陸の広域の言語の骨幹の共通性説(アメリンド大語族、環太平洋言語圏)、島国日本の今に至る特異・孤立的な特性説や東南アジア・揺り籠地域のその後のモンゴロイド化の大きさなどがみられます。人の脳は建て増しで来ましたので、この長い始まり期間の暮らしぶりへの現代への影響は基盤としてあるでしょう。さて、 ニューメキシコで2.3万年前に生活という事は、北の陸橋土ベリンジアに2.5万年以前、すると人跡ある東部シベリア根拠地ヤクーツクや北海道を3万年前頃に出発か、となるでしょう。その年代だと未だ人類がモンゴロイド化、白系人化していない、居無い世界だったと導かれます。欧米先生が図左下、①南方の〝揺り籠″地域の「インマレイド」を大ざっぱに広義(古)モンゴロイドと称したことから議論が分かり難くなっています。出アフリカの黒人が東進し、沿岸・熱帯雨林の暮らし(計画性や技術的な工夫が必要―-豪Tanya Smith)に適応し変化したインマレイドと、寒さ・吹きさらしの強風・降雪の厳しい環境に適応して、はっきり身体変化させたモンゴロイドとは全く違います。このインマレイドが引き続き東進・渡海し豪州へ。方向変換して緯度を北上(大陸河川を沿岸から遡上)し、3万年の時間をかけて奇しくも北部九州への渡海・祖人の列島拡がりと北京近郊洞窟での田園洞人の河川食暮らしとなりました。この渡海拡がりと河川食は、共に沿岸民でしょう。4万年前の北京郊外の田園洞人が、大陸の狩猟人ではなく沿岸民の遡上痕跡( 東シナ海の西部が無数の河川の「北東亜平野」であったこの時代) であったと考えられ、北部九州祖人とどこかの時点で枝分かれした類縁である「北上インマレイド」NIMであったことは重要です。NIMは、沖縄・石垣島祖人(2.7万年前)のようにスンダランド地域の写真からは変化していますが、南方系と認識されています。この事から、先頃、国宝指定答申のなされた祖代の白滝遺跡人は、図のようなイメージとなり大人も子供も「へ~?!」というのでは。

問題は③シベリア・バイカル湖西岸域のマリ(ル)タ遺跡人(幼児)で、歯分析で有名な米人類学者Christy G. Turner II (1933 – 2013)が「欧州系である」としたことが世界的ですが、日本学者の認識は(北上の)アジア系で異論を表明しています。も一つは、出アフリカから北上した正にエックスX(出アフリカ人の変化形だが、モンゴロイド、白系ではない、沿岸系とも一応の類縁性)で、古い石器痕跡などが報告されていますが、イメージを描いたものなどはアリマセンので、図のような混成表現としました。結局、➃最初のアメリカ人(第1波)は沿岸系と内陸系が考えられますが、北上インマレイドNIM主+Xが候補ということになるでしょう。そして、沿岸or#1(初期)無氷回廊を南下です。従って、「足跡人」イメージは、その独自変化形ですが、モンゴロイドと白系は含まれないことが、世界の誤解を正す重要な事なのです。そして痕跡の中米オルメカ人(ハワイ人より古い)、南米の1.2万年前の女性人骨ルチアも理解でき、また、北米から南米への拡がりは欧米先生の言われた超特急などではなく数千年を要した常識の線で理解されます。更に第1波後に、氷河期が終わって北米の「無氷回廊」が開通し進入して来た第2波までの数千年~万年の期間を、第1波の人々は薄く広く沿岸・河川沿いを主に拡がり、独特の変化も生じた事でしょう。

このような研究は、月にロケットが飛んでも 日々のニュースのように 戦争は絶えず、 人間はあまり変わっていませんので、道具が進化しただけ危険が増していると言えるでしょう。始まり時代を軽視しては、今の問題の多い国際社会の良い処方箋は出ないのでは。 研究の意義は、あまり変わらない人間に「現生人類は皆親戚」を改めて想起させ、 (2代目)「縄文人は何処から」の愚問(列島NIMの子孫) を無くし、また、日本史は室町からで十分という傲慢な人々、この北海道・白滝祖人の子孫を消してしまう有害な下図中「北海道白抜き図」とする誤った人々の認識を正すモノなのです。

東洋史の基本構造は、インマレイドが北上(NIM化)、西方Xが加わり、モンゴロイド化し南下・東西進したものです。モンゴロイド化が始まり、どのように拡がっていったのか、その影響がどうかは、特にアジア・アメリカ史の大きな課題です。 先ずは、生徒・学生に教え、 教室で写真の人々に光を、 国際共同研究の推進に予算を、です。

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