現生人類が出アフリカを果たし、現在のイラン―パキスタン地域から東進し、東南アジアから北上して、当時の海水面低下で現れていた東アジア平野(朝鮮南部~台湾の東シナ海、黄海部分)から海を渡って九州に入って来たのが4万年前頃とみられています。

その後、太平洋側と日本海側の両方向から北上して拡がり、3万年前頃には北海道太平洋岸に至っています。

さて、日本祖人の北海道太平洋岸からの米新大陸への進入問題についての話ですが、結論的に、

当時は海水面が数十m低かったためシベリア東端とアラスカは陸地が現れたステップツンドラのベリンギア地峡となっており、前回まで説明しました日本祖人の移動進出のルートとそこにおける主要な問題点は、①最北の寒さは大丈夫だったか? ②千島列島の長距離の海峡は越えたのか ③アラスカ湾岸の一部には氷床があったが問題は?でしょう。

さて、九州から北海道太平洋岸まで1万年という長い期間を要していますが、これは今よりも2-4℃くらいは低かった時代の環境にあると思います。

そもそもアフリカを出て赤道から北緯20度くらいまでの暑い・暖かい地域を行動していた人類が、年のうち3-4ケ月も雪の降る、草原と針葉樹の列島北部(北緯40度越え)にまで生活圏を伸ばしましたので。

他方、暖かい黒潮が北上する細長い日本列島を南から北へ、海水面が数十m低下した津軽地峡を越えて北海道太平洋岸で生活するようになったことは、大きな環境変化に着実に順応しつつ歩み得た大変ラッキーな事だったと考えます。

更に、後続の人々を含めて太平洋岸を進んだ人々と日本海側を進んだ人々の血と生活が、1万年の間に細長い地で混じり合えたことも正に「二本」祖人で、いよいよ出北海道、千島列島から北のベリンギアに進んで行く上で大変良かった、ラッキーだったと思います。

因みに、縄文人(1.65万年前頃から)と呼ばれる前に南方海人型の人々は、更に1万年間、特に直前には大陸の大柄な北方適応型の狩猟民族を北から、西からも交えています。

日本祖人は、素朴なものではあったでしょうが、この列島に籠ったように特有の精神性ある基層となる暮らしの列島文化の芽を育んでいたと考えます。

おそらく、九州に入った頃は色黒だった人々も北海道に入った頃には、茶褐色に変わっていたことでしょう(欧州白人が、アフリカの色黒からユーラシア北部暮らしを経てそうなったのは約8千年間でと言われてますので)。

さて、出発点として現在分かっている当時の日本北端遺跡である帯広地域の遺跡は次のとおりで、下図の右手の大平洋に注ぐ十勝川の南、平野の中央に最古の若葉の森遺跡の他、縄文時代などの多くの遺跡が確認されています。

若葉の森遺跡では、9,700点の石器が出てきていて、その殆どが当時の貴重な黒曜石、かつ、地元十勝産であることが大変興味深く、数km歩けば手に入る恵まれた、万年の昔から道東の中心であったのかも知れません。

そして海水面の低下を考えれば、今は自然豊かな海に近い浦幌や長節の台地などにも人々の暮らしがあったことだろうと思います。

野火でしょう、焼けた土から年代が分かり、また、炭化した木からエゾ松、グイ松などの針葉樹林が拡がっていたことが分っています。ヤチカンバ(湿原の塚状の高まりヤチボウズの上に株立ちし、5-15本の幹を持つ株が多い。成熟しても樹高1.5mほどの低木にしかならない)もありました。

沿岸部の特色は、降水量が内陸より多く夏は海霧で気温が低いというものです。

注目の冬の気温ですが、真冬は平均して―10℃、寒いときは―20℃で当時は2-4℃低く、雪は北海道の他地域(南部除く)よりは少なく(年:3-4m)、北のオホーツクから風向きで2-3月に流氷が来ます。

さて、南方海人型の日本祖人がこの帯広の気温の環境下で、食材豊かな、動物毛皮利用の衣食住を整え暮らし得た経験を有します。毛皮は風に強いことが良く、エスキモーの人たちの様々な生活の工夫が当時の暮らしを窺がわせます。

(この南から北へ無理なく移動進出していった経験をよく認識しないことが、渡米問題論の低調の一因でしょう。)

さて、日本祖人の渡って行ったルートについて状況を見ていきます。

まず、千島及びカムチャッカですが、千島列島のウルップ島勤務の旧軍兵隊さんやカムチャッカ半島沿岸(ペトロ、パブロフスク)で日本語・文化を9年教えた先生の体験記などを読みますと、―20℃が寒い時期の気温のようです。

ウルップ島の兵隊さんは、雪の積もった中、2月末上陸したが思ったより寒くなかったとし、厳冬期含む1年半の滞在での印象はおいしい魚、岩のりなどを食べたことが書かれています。

カムチャッカ駐在の先生は、冬(厳冬は―20℃)が6ケ月と長くて雪が多く夏が短くて暑くないとし、沿岸暖流のためか寒さの印象の記述がないです。鮭、鱒の大漁や温泉、夏の木の実や秋の茸などが書かれています。

カムチャッカに抑留された兵隊さんもやはり―20℃で、ストーブの火を消した後の幕舎の朝、起きるとまつ毛が凍っていたとし、-40℃(かっての不凍液も凍るか)になったときは作業は休みだった(頻度少ない)と書いていますが、水産物やアイヌネギを食べれたときのおいしさが印象深く書かれています。

以上のように、千島列島やカムチャッカ半島太平洋側沿岸の状況は、霧、風の強さや冬長く雪が多いことはあっても寒さが厳しく非常に辛いということではないようで、帯広とそんなに変わらないようです。

次にベーリング海周辺ですが、最北端のシベリア東端南部沿岸(上図1.A)のナヴァリン岬の真冬(12月―3月)の最低気温は、23-24℃であり、帯広の冬の最低気温とそれ程大きな差はなく、やはり期間が長く夏の気温が低いという特徴も千島、カムチャッカと同様であり、訪れた者は想像に反しそんなに寒くはないという所感を述べています。

(Vacations To Goから)

ベーリング海東南部の沿岸島では、冬12-2月は―13℃(夏6-8月は12℃)で流氷が接岸する。また、南のアリューシャンでは1月が―19.7℃、夏の7月9.9℃で帯広の最低気温の暮らしで対応できます。

また、アラスカのアンカレッジでは、12-1月の最低気温が―13℃、夏は15℃くらいで問題ありません。

なお、北海道大学での勤務経験がある米ミシガン大のセオドア・バンクは、アラスカ・アリューシャンは北海道の島々と気候・地形・動植物に驚くほど類似性があると書いていますが、こういう所見が一般的です。

帯広の若い人たちが、東京大阪よりもカナダ北米に親近感を持って旅行に出るというのも私には何とも示唆的です。

因みに感じでは、風が無ければ-20℃は、鼻毛むずむずそこまで10数分なら手袋・耳覆い等をせずに歩ける気温で、-30℃くらいは天幕で寝て起きたらまつ毛凍ってる、-40℃は体内の骨が凍ると言いたい寒さです(-50℃は出たお小水を手で払いながらする?)。

以上の検討で明らかになりましたように、日本経由の米新大陸への進入がこれまで歴史考古学において相手にされていないのは、①3-2万年頃という人の遺骨や遺物がベーリング海地域ではっきり見つかっていない ことのほか、②槍持った裸・毛皮イメージの原始人が「あのシベリア・アラスカ」を行動するのは無理 ということがあるのでしょう。

①については、海水面の上昇で当時の遺跡が海面下であることや沿岸で万年の間に津波を受けていることもあるでしょうし、人口少ないシベリア・アラスカでの遺跡発見の機会の乏しさもあるでしょう。

②については、ア 日本祖人が南から北に結果として長い間の良い準備行動をしていたことや出発点の帯広の遺跡と寒冷状況で動物毛皮利用の衣食住を整えて日本祖人が暮らしていたことが世界の学者によく認識されていない。 イ 何より、-40℃が普通の内陸のシベリア・アラスカとは異なる沿岸の状況が、イメージと違って帯広とそんなに違わないことがよく知られていない。ウ 帯広出発の頃は寒冷が進んだ時期であり、最寒のベーリング海地域に進出した頃は寒冷緩和期に通過したことになる。 などの理由のためと思っています。

そして、歴史考古学界をリードする欧米は、子供のころから欧州アフリカ中心の地図を見ているため、シベリアとアラスカが紙の右端と左端に全く離れている、なども案外、総合的な連携研究が乏しかった一因ではと思っています。

次回から、第2、第3の渡海・氷床の問題点や寒冷降雪地での暮らしぶりなどを探り紹介していきます。

(了)

 

 

前回は、現生人類が出アフリカを果たし東進後の古い東南アジアSundaland地域の当時の人々のDNA(今は大分違います)と南米アマゾンの古い部族のものが他のどこよりも近いということから、北海道からアラスカ南部に至る進入のルートと時期について、結論的に当サイトの仮説(下図、2.5万年前頃でその時期の海岸線沿い)を紹介しました。

結論的に言いますと、寒いベーリング海地域を越えれたのかという一番の問題について、①沿岸地域の気温に着目しますと実は思いのほか状況が北海道太平洋岸(道内最古の遺跡)と差があまりない。従って、地図を敢えて北海道とベーリング海域を近くしています(実は思いのほかもっと近いのですが、図が分からなくなりますので)。

②日本列島の北上がとても良い準備行動となっていた。③進出して行く行程と当時の寒期・緩和期の状況が、納得できるマッチしています。

更に幸いにも、北海道~シベリア東端沿岸 と アラスカ~米国北西海岸は、図の真ん中(ベーリング海峡部~ハワイ西方)で折れば鏡面対象になっている(大原昌宏・北大総合博物館教授)と言われる、動植物の近似性もあり生活に慣れ易いです。

縄文人が、その土器出現をもって16,500年前頃からと定義されていますので、それ以前に日本列島から米新大陸に沿岸沿いに進出していった人々は、そのまま日本祖人・海人型と言えます。

そして、日本列島に縄文人が出現した以降、既にアラスカを越えて米西海岸から南米の西沿岸・アマゾンへ進出していった人々は日本祖人の子孫であり、縄文人と同時代のポスト日本祖人とでも呼ばれるべきでしょう。

日本列島には、2万年前頃から、寒冷降雪に適応した狩猟系の北方適応型の人々が北(樺太)から西(東アジア平野)から進入して来ていますので、列島であるいはベーリング海地域に留まって暮らしていた日本祖人は、それらの人々に追われたり混血したり棲み分けたりいろいろあったでしょう。

そしてその後は、列島縄文人、千島ベーリング海域は後日本祖人あるいはエスキモー・イヌイット祖人などと呼ばれていくことになります。

南米に進入したポスト日本祖人のごく一部はアマゾンに今も残り、途中の後日本祖人は最早融けて分からなくなっているようです。

さて、

3万年前頃に北海道から北上していった南方海人型の人たちの移動・進出については、基本的にルート上の焦点は、寒さが最も厳しいベーリング海域の沿岸を移動進入する細部ルート・時期になり、下図となります。

通説の人類移動は、発見された遺跡をもとに図のベーリング地峡中央のNativeインディアンのBルートと、少し遅れたと言われるエスキモー・アリュート族のCルートですが、これは既に寒冷降雪地に適応したDNA変化を起こした北方適応型の人々でしたでしょう。

アラスカで最も古い遺跡が見つかってるのは1.5万年前頃のアラスカ・ユーコン川畔のものであり、東方から島々を伝って行ったとみられるアリューシャンでは9千年前の遺跡が発見されています。

この時期は最終氷期最寒冷期LGM(2万年前頃)が終わった後の温暖化期のもので、寒いアラスカや孤立的なアリューシャンで生活し得ていたことはよく理解できます。

ところが問題は、LGMが終わった後のこの温暖期に初めてアラスカへ進入したとすると、遥か南の南米チリのモンテ・ベルデ遺跡に到達し生活した(1.4万年前頃)のが早過ぎ、ましてそれより早いとみられるアマゾン3古部族(南方型)の存在が理解できなくなります。

更に、最寒期にベーリング海域を移動し進入して行ったのもあまりに厳しいです。

従って、最寒のベーリング海地域を経たのはLGMの前の寒冷最緩和期2.5万年前頃が最適であり、北海道太平洋岸(3万年前頃)出発からの移動とLGM前にアラスカ湾の氷床近傍を抜け、南米に到達(1.5万年前以前)していたと考えればトライした多くの人たちのうちの最適な行程が導かれます。(図中の丸青色3万年、2万年は寒い時期、丸橙色2.5万年は寒冷の最緩和期です。)

また、ベーリング海域までは、千島列島経由のαルートとオホーツク海回りのβルートのいずれが早いかが一応考えられますが、南方海人型の移動としては暖かい太平洋岸を北上し得た、距離の短いαルートとしてよいでしょう。

ルート上のこの古い人の生活遺跡は、現在の数十mの海面上昇下で発見されない沿岸地域にあり、人々は後から進入してきた強い狩猟族である北方適応型に追われたりして分からなくなっているのでしょう。

いずれにしましても、米新大陸の中にいくつか渡って行ったとみられる物や時期の不思議な遺物があるにも拘わらずこれまで相手にされてきませんでしたが、このように行程を考えますと、南方海人型の人たちが渡って行ったのだろうと考えられます。

次回は、この米新大陸進入に関わる個々の状況について説明していきます。

(了)

 

 

前回、Harvard医科大が昨年行った南米の3古部族のDNA調査において、同じ南米や北米、更にシベリアなどにも見つからず、古さの残る豪アボリジニやパプア、アンダマン諸島等の人に近く、かつ、直路南米に至ることが考古学的に考えられないので、日本を経由する環太平洋ルートで南米アマゾンにまで子孫が達したと考えられることを紹介しました。

以下説明していきますが、結論的に言いますと、現生人類は出アフリカ後の東進、北上後の4万年前(BP)頃に九州に至り、北上して3万年前頃に北海道太平洋岸に達し、北方冬季の気候・生活環境を経験しました。

渡米が成功し発展したグループは、寒さが緩和した2.5万年前頃に、ルート上の最寒冷のベーリング海域を経てアラスカ南部に達し、最も寒かった最終氷期最寒冷期LGM2万年前頃の前には氷河のない米西太平洋岸に至っていたものと考えられます。

その後は、特に問題なく南下して南米最古の遺跡の形成以前にアマゾン流域に達したと考えられます。

まず、ルート上で一番問題となるベーリング海域を通過する点については、前回、最新の研究からカナダ、北米への進出は大平洋沿岸ルートであることを紹介しました。

時期については、Harvard医科大の発表前の通説である最寒冷期LGM後の温暖化時期ではなく、LGM以前に通過したと考えます。そうでないと、最寒冷期のベーリング海域通過はあまりに条件が厳しいですし、また、南米最古のチリ南部のモンテ・ベルデ遺跡(1.4万年前頃)よりずっと原始的で古いと思われるアマゾン古部族の存在が説明できません。

こう考えてくれば、南米アマゾンの南方型DNAを残す人たちは、寒冷降雪の北方適応型DNAの闘いに強い多くの人たちの2万年前頃の進出以前の寒冷緩和期にベーリング海域を越えて米新大陸沿岸に進入したとみられます。

その後の婚姻による人類の発展を考えれば200人以上の人々が、丸木舟で海流に乗って直路北太平洋を渡ったとは思われず、着実に歩を進めるベーリング海域ルートでしたでしょう。

当時の氷河・気候の状況をみますと、北海道太平洋岸に居た頃は下図の3万年前頃のアフトーニアン寒冷期であり、その後緩和期に千島列島からカムチャッカ半島、ベーリング海域を通過し、カナダ氷床を通過してLGM期には氷床の無い北米に達していれば進入発展の成功確率が高いでしょう。

さて次に、下図の細部のルートですが、前述のαルートの他に沿海州の方を回るオホーツク海ルートβもあり得ますが、寒冷の沿海州・樺太方向から北海道への多くの人の進入が2万年前頃ですので、αルートの可能性が高いでしょう。南方型人が初期にこの氷期を緯度を上げて北へ行くのは時間を要したのでは。

次に、ベーリング地峡南部海岸沿いAとアリューシャン列島沿いBのルートが考えられますが、B上のアッツ島とカムチャッカ東方のコマンドル諸島の間が400kmくらいあり、潮の流れも複雑で強いことから当時の舟では厳しく、寒いですがAの可能性が高いでしょう。

この地域のエスキモーの人たちは大変慎重なことで知られ、ここは波があり霧がたちこめることもあるため、岸からあまり離れずに航行するそうです。何しろ、転覆などして冷たい水に浸かればそのまま死を意味しますので。

他方、考古学的にも(9千年前頃のアリューシャン遺跡ながら)、アッツ島へはアラスカ半島の方から島伝いに西進して達したものと考えられております。

米大陸への進入は、比較的寒さが緩和された時期にルート上を着実な歩みで最寒期LGM前に氷床の無い北米に進入したとすれば最も好条件であったとみられます。いずれにしても、多く進入を試みた人々の中の数十%の成功した人たちが創った歴史とみられる厳しいものです。

以上の事から、当初、結論的にお示しした行程が一応の妥当性があり、人々の進入・南下に最も好条件なものとなります。

さて次回は、それでは日本祖人がそのルートを進むのはどうであったかです。

寒くなっていきます時期に正に寒い地域の話で恐縮です。

あまり注目されない寂しい地域で、かつ、万年の古さの日本祖人のアラスカ渡米の歩みがどうだったんだろうかについて、南方ボケ者が探って参ります(一応、出発地である北海道の雪深い道南の倶知安とオホーツクに近い道北で約10年間の勤務経験者です)。丁度、プーチンも来るようですし。

(了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨年、ハーバードHarvard医科大チームにより、南米アマゾン3部族Suku AmazonのDNAは古いもので、しかも近隣南米はおろか北米やシベリアにも見当たらず、豪アボリジニAborigine、パプアニューギニアPapua、アンダマンAndaman諸島の人々と近いという驚きの発表がなされました。

どうして?と記者に問われた先生は、太平洋を渡って植民地化colonizeしたんだろうか?とニガ笑いです。そして、今や途中の経路上の人々は消滅してしまっているのだろうと答えています。

さて、赤道地域を直進して南米に至る”colonize”化は、アフリカで誕生した我々の祖先である現生人類の出アフリカ後の足取りを知る人類学・考古学者等からすれば、人類が太平洋に漕ぎ出したのはせいぜいのところ3-4千年前であり、ゼロが一つ違う全く新しいことで認められないです。

後ほど細部説明しますが、私は、まず最初に東南アジア・パンカル地域を北上した色黒の南方型の子孫が日本列島経由の環太平洋ルートで米新大陸沿岸部に達して入り、北・南米大陸の太平洋岸を南下して南米に至ったものとみます。

そして、大型哺乳動物を狩猟し、寒冷降雪地への適応を果たしたDNAの狩りと闘いに強い北方適応型が、遅れて(もしかしたら前後あるいは混在)シベリアからアラスカへと入って来て沿岸部に先着していた南方型は攻められて散りじりに消えていき、その沿岸の生活の痕跡も海面上昇で消えたものと考えています。僅かに、広大な南米アマゾンの人里離れた所に逃げ隠れ生き残っていたという訳です。

リオ北で発見されたパンカル地域やアフリカ人に近いと言われる1.3万年前頃の南方型の女性人骨「ルシア」、チリの14000年前頃のモンテ・ヴェルデ遺跡では、北米とは異なる様式の古い石器類、海藻を食し炉もある生活痕が発見されていることなどや岩絵を描き主に淡水魚を食したアマゾン川域遺跡など、南米に点在する幾つかの痕跡が繋がって線になってきて元々が海の民の太平洋岸南下を示しています。

そして前述の考えに私が至った記者が気づかない注目すべき第2の点は、アフリカを出て東進した南方型の子孫がそのまま南米にまで行っているということで、北米のNativeのような北方適応型(アジア北方内陸部が原型)ではない人たちというものです。

Nativeアメリカンの北米と南米、シベリアや今の東アジア人との関係、そして北・南米大陸の各地で発見されている遺跡の分析において、このDNAの南方型と北方適応型を意識しないことが発見遺跡の分析や議論の混迷の元にあると私は考えています。

さて翻って、パンカル地域の人々が太平洋を赤道沿いに直進して南米に渡って行ったのではないとなれば、北回りか南回りのルートとなりますが南回りの南極の方は全く取り付く島もなく何の遺跡上の裏付けもありませんから北回りとなり、俄かに日本列島が注目されます。

このサイトで既に述べましたとおり、確かに日本列島には4万年前頃から、南方型の子孫が西・南から進出して北上し拡がっていきました。

2万年前頃、マンモスを追って北方適応型の人たちが北・西から入って来る前に北海道太平洋岸にまで至っていますので、3万年前頃の北海道太平洋岸からその後も南方型のまま新大陸に入っていればぴったり辻褄は合いますが、問題は、米新大陸に渡り得たのか?です。調べ得る痕跡は無いに等しいですが。

Nativeインディアンは、2~1.5万年前頃にシベリアから当時の氷河期の海水面低下により現れていたベーリング地峡を越え、下図のカナダ内陸の氷床の隙間の無氷回廊ルートを南下して北米に入ったという従来の定説が、実は最近のアメリカにおける研究で否定されました。

2つの湖の氷の層の環境分析から、約1500kmの無氷回廊を人びとが通過し得たのは、温暖化した12600年前頃以降のことでそれ以前は痕跡も無く無理であるという結果です。

他方、このことによって既に北米で発見されている14000年前頃の遺跡を説明できなくなり、舟も利用する西側の太平洋岸ルートであろうということになって、俄かに注目されることとなりました。

それまで相手にされなかった太平洋岸ルートということになりますと、米国に至れば南下して南米に至ることは大きな問題はありませんし、学者を驚かしたいいスピードで南端にまで至っていることも、沿岸を舟を使えばよく理解できますので、焦点は当時の北太平洋、ベーリング海地域を人々が渡れたのかということになります。

そして下図の地域を見ますと、北海道以降のルートで2万年前頃の最終氷期最寒冷LGM期以前の渡米進入路として、ベーリング海北側の地峡沿いA、アリューシャン列島沿いB、北太平洋の海流に乗って直接渡るCというルートが一応考えられます。

先ごろ、東北大震災で八戸の神社鳥居の笠木が米オレゴン州の西海岸に流れ着いた(Cルート)と話題になりましたが、無人の野のアメリカ大陸で人が増えて定着するには、事故や病気で人が失われる、また、婚姻と正常な遺伝による部族の発展を考えると少なくとも200人くらいの母数が必要と見られています。

Cルートは、渡海が実行可能と言われ、かつ、最も暖かいルートですが、1舟2舟はともかく前述の母数を考えますと丸木舟の時代に多数の人々が見通しをもって計画的に漕ぎ出して行ったという可能性は低いと言わざるを得ないでしょう。

仮にあったとすれば、姶良大噴火(2.9万年前)後、シャーマンに率いられた難を逃れる多数の人々が日が昇る海の彼方の神の地を目指して漕ぎ出し、その生き残りの人々が到達したとでもいうことでしょうか。

さて、今から直前の氷河期は7-1万年前頃のことで、寒い中でも寒暖の波はあり、最も寒かった2万年前頃の最寒冷LGM期における状況は下図の通りで、広範囲の沿岸・島嶼部(白部)では、寒冷なステップツンドラの草原でマンモス、ステップバイソンなどがいる状況だったとみられています。

最初に南方型が新大陸に進出して南下し始めた注目の時期であるLGMの前の2.5万年前頃は、少し寒さが緩和されていたために海水面も図より3-40mは上昇していました。

カムチャッカ半島~ベーリング海北側沿岸ルートAは、最も寒かったでしょう。カムチャッカ半島~アリューシャン列島ルートBは総じて曇りがちで霧が深いと言われ、現在の米露国境のアッツ島とコマンドル諸島間は潮流が激しく、その離隔も数百kmあります。

いずれのルートにしてもよく見ますと、南下して行くアラスカ湾の一部(赤丸地域)は氷床が海辺にまで来ています。とても人は行動できなかったのでしょうか?

アラスカ湾赤丸地域を地図で見ますと下図の通りです。米国アラスカとカナダが国境を接しており、カナダのブリティッシュコロンビア州地域とアラスカ湾の間にも米国アラスカ州の領土が細長く伸びています。

当時の海水面は下地図よりも約90m位低く、入り組んだ海岸線地域の陸地部を氷床が覆っていたことでしょう。アラスカと言えば寒いイメージですが、旅行書によるとアンカレッジの夏は思いのほか暑く、半袖でいいそうです。

そして、この地域で生活するイヌイット(生肉を食べる人の意ではエスキモー)の人たちは、氷壁の前でも漁をする人たちのようで、特にアリュート族(アリューシャン列島人)は、舟造りや操舟、漁に長け長距離の輸送航海に慣れた正に優れ者の北の海の民だそうです。

次回は、当時の千島・カムチャッカ・ベーリング海域・アラスカの人々の存在に関して思いを巡らせ探ります(近代になって毛皮を求めに来た露人に海の民アリュート族がほぼ壊滅されましたので、安倍首相が、露プーチンさんに騙されませんようにと祈りつつ)。

(了)

 

 

 

 

 

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