番外―Cool Japan へ一歩前進

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ゴキほいほい

中の”待つぞえ”の所へぞろぞろと入って行く。

唯一、彼のした良い事がこれ。先頭は、よせばいいのに恥かくために最後に顔出した口舌だけの噂の男、お次は、それは曲が違うだろうといういつもの歌で呆れられている他を非難するだけの男・女のブーメラン4人組、アブない学生もどきの連中、暗い隅のドンだのゴロ、一部の歪みマスゴミ、・・・やったね~~の一掃ポイ。

少しは子供たちに見せられるものになっていくなら仕方ない出費のゴキほい設置料。ちゃんとした批判勢力がいない地方にもしっかり置いて積年のゴキを除去し、次の永田町向けは〇側をぐっと大きくして、あ、それと退場すべき年寄が杖なしでも入れるのにしなくちゃ。

政治は、最も大切にされ尊敬をもって見られるものであるべきでしょう。党利党略は論外、無知利己の輩や食い扶持にしてる政治屋は排除されねばなりません。

これを疎かにしているといずれ大きな災禍に襲われることは戦前に、いや数年前に体験済みです。

(了)

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東ジャワの州都スラバヤでAndi遺跡文化保護局長さんからお聞きし、スラバヤ西南モジョケルトからプナングンガン山麓へ上がって訪れたジョロツンドJolotundo遺跡ですが、出かけたのは訳がありますと前回お伝えしました。

Jolotundo遺跡の基本構造は、プナングンガン山麓を切り開いて造られており、背後の山岩壁の前に階段を上がると本殿・奥の祠が見えます。階段を上がった所は、広い水平の池で平面テラスとなっています。

東ジャワには、かって多くの古い山麓神社があり、その様式はPunden berundak崇められている雛壇式墓場、古代廟、村人が誓いを立てる所などと呼ばれるものです。地域の人々の語り伝えをJohn Miksicが図にしたものが下図であり、高校の歴史教科書にも載っています。

私が気づく特徴は、例えば番号を振ったようなものです。

今回訪れたJolotundo遺跡は、この東ジャワ伝統の古い山麓神社の基本的な構造を踏襲してヒンドゥー教様式で造られているとみられます。

 

人類の百貨店の当地では、古い聖地に新たに何度も宗教的な施設が造られている例は多々あります。また、今回は東ジャワを見ましたが、かっては西ジャワ、いやスマトラ島などにも在ったかも知れません。

さて、

エジプトの先史建造物は世界に誇るピラミッド群ですが、そこに最初で最後の女性のファラオ、ハトシェプストの造った葬祭殿があります。

ハトシェプストの数奇な運命は、治世が終わるとその栄光の事績を描いた数々のものが削り取られ抹消されるという正にドラマでした。

そのミイラは発見されず、彼女のナースであったミイラの傍らにボロ雑巾のようになって転がっているミイラ、専門のエジプト学者たちも全く気付かなったそれが女王なのではないのかという話があるくらいです。

 「ハトシェプスト」の画像検索結果

(wikipedia)                                                           (ameblo)

他の男性ファラオたちとは異なり、女性なるがゆえにピラミッドは造れず代わりに後世の人々をして豪壮比類なきといわしめる葬祭殿を、ルクソール西岸の断崖を背に造りました。

(nabe-scm.com)

問題は、そのハトシェプストの葬祭殿と東ジャワのJolotundo遺跡に至る古い山麓神社の基本的な構造が類似ではないかというものです。単なる歴シニアの私の意見です。番号を振った所などが同様と思います。

先生方に聞けば、ハトシェプストのは紀元前15世紀半ば、Jolotundo遺跡は紀元997年で、古い山麓神社は、紀元前後だろうかはっきりしないということになります。そもそも似てないと言われる先生もいるでしょう。

私が注目しますのは、①東ジャワの村人たちがハトシェプストの葬祭殿を知り、かつ、真似をしたとは思えないこと。②一部のエジプト専門家が、ハトシェプストの比類なき葬祭殿は、エジプトの風土から生まれたとはとても思えない、他所から導入したものではないかと言っていること。にあります。

エジプトのファラオたちが大航海によって、神の地・宝物の地のPuntから金、香辛料、木、動物など沢山の貴重な宝物を得ていたことはヒエログリフの壁画に描かれ史実として認識されていますが、Puntの場所については東部エチオピアなど諸説あり不明です。

そして、ハトシェプスト女王が、このPunt大遠征により神に捧げる沢山の貴重な品々を得たことは、今も詳しく壁画等に残っています。

私は、その得た品物の種類・特色と海の民フェニキアの研究を経て、PuntはパンカルPangkal地域と考えています(本サイト―フェニキア項)ので、ハトシェプスト女王が葬祭殿の元になるデザインをも得ていたとしても驚きません。

むしろ、一部のエジプト専門家が、葬祭殿のデザインは何処か外からもたらされたと言うならば、それはパンカル地域しかないだろうと考えています。

 

実にロマン溢れる驚きの大ミステリーであり、引き続き追っかけて参ります。

(了)

 

 

 

 

 

 

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前回お伝えした東ジャワの州都スラバヤ西南モジョケルトからプナングンガン山麓へ上がったジョロツンドJolotundo遺跡ですが、出かけたのは訳があります。

それは、東ジャワに昔あったという神社について、人々の言い伝えをもとに描かれた図があります。今は無いにしてもそこを一度この目で見てみたいというものです。

Andi歴史文化保護局長さんに会ってその話をしたところ、東ジャワには同様の遺跡が多くあり、スラバヤからの近さ、行き易さからジョロツンドがいいだろうというアドヴァイスをいただき出かけました。バス、ミニバスを乗り継ぎ最後は、バイクタクシーで上っていきました。

正面の左右から階段で上ることができ、上がった裏側に祠があり、お参りする人もいることは既にお伝えしたとおりです。

問題は、遺跡の場所の選定と全体の造りであるその基本構造ですが、この遺跡は①山麓斜面を切り開いたもので、②遺跡の背後は壁のようであり自然の立派な大岩が数個あり、③前面に開けた本殿施設があります。

大岩の大切さは、バリからの一行の老師が、足の弱さにも拘わらず惹かれて皆が行かない所に上がっていっていることがそれをよく示しています。

そして、正面の堂々とした本殿前には広い池が平面テラスのように、また、中央と側方の階段も特徴です。正面右手の大木は、明らかに日本ならご神木です(ここでは、お参りのご一行が特に関心を示す様子は見られませんでしたが)。

そして、私が強く惹かれ見に行きたいものだと考えた図は下のようなもので、巨石構造物の1種であるPunden berundak(崇められている雛壇式墓場、古代廟)としてインドネシアの伝統遺産紹介本、高校歴史教科書にも掲載されています。

個々の単語の意味は、辞書では次の通りです。

Punden・・・始祖の墳墓、聖なる場所、村民が誓いを立てる場所

berundak・・・階段状の、広い段々になった  sawah(田) berundak・・・棚田

山麓斜面を切り開き、広い平坦なテラスとそこに至る中央及び側方の階段を有し、背後に屏風のように感じられる壁とテラス上の施設に加え奥にも小さな施設があります。

さて、最初に紹介した東ジャワ各地に同種の施設があるジョロツンド遺跡とこの古代廟をあらためて比べてじっくりご覧ください。このページですと小さくなって分かりにくいのが残念ですが。

 

私には、場所の選定、造りの基本が同じように見えます。時代は、左のJolotundo遺跡が千年前頃、右は、2-3千年前頃と考えられていますがよく分かりません。

そして、その時代よりもずっと前にこの図の更に元となる原始的な施設が在ったかもしれないと思わせるところが此処、人類の百貨店です。

此処、人類の百貨店では、古代のアニミズムから仏教・ヒンドゥー教、そしてイスラム教(キリスト教も)が時代を異にして入ってきていますが、昔からの聖地が生かされて新たな施設がそこに造られている例は多いです。

そして、これらの場所、基本構造が類似なものであると認識しますと、実は驚きの大変不思議なことに導かれていきます。次回をお楽しみに。

(了)

 

号外

カテゴリー: 前線ルポ,最新情報,遺跡

日本を語り前へ進める力ある候補を、良識の府へ!!

4万年前頃、列島に入り拡がった「海の民」日本祖人、そして縄文人・弥生人へ、始まりの祖先の地であるパンカル半島の遺跡や環太平洋の古くからの人の繫がりの史的研究への支援・協力を力強く前へ進める、世界を視野のCool Japan 候補に1票を!!(史的な語彙・見解は、筆者責。)

(了)

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東ジャワには、古くからの聖地にその後ヒンドゥー教の施設があちこちに建設されており、興味深いものがあるため、独立闘争の聖地である大都市スラバヤの見学と併せてそれ程遠くない所を訪ねてみようということで出かけました。

スラバヤ西南の1-2時間で行ける町モジョケルト、そこに高名を聞いていたAndi Soid文化保護局長さんがおられるのでコンタクトし、アルジュン山と並ぶプナングンガン山麓などにもある遺跡についてアドヴァイスを求めるべく連絡しました。

丁度スラバヤ市街に業務で出てこられていたAndi局長さんとお会いでき、プナングンガン山麓のJolotundo遺跡が近いし適当で良いとのアドヴァイスをいただきました。

バス1.5時間、乗り合いミニバス1時間を乗り継いで最後はバイクタクシー・オジェに乗って遺跡に向かいました約30分。途中アルジュン山・プナングンガン山がよく見え、御殿場から須走口に向かうような景色を楽しみながら行きました。

Jolotundo遺跡の入口                         Andi文化保護局BPCB長

遺跡の前には休憩・土産店もあり、聖なる地とみているイスラム教徒訪問者の祈りの場所ムショーラもあります。入口を入って進んで90度左に向きを換えると遺跡に正対します。正面の階段を上がって本殿遺跡になります。

日本でも人気の隣のバリ島から、白装束の人たちがこの聖地にお参りに来ています。時々皆さんでバスを仕立てて来ているとのことです。千年前(AD997)に建てられた山麓の丈の高い木々に囲まれた静かな寺院です。

此処は水が豊富であり、イスラム教徒を見慣れた私には馴染みがないですが、若さ維持の効能の聖水を有難く思う人たちにとっては素晴らしい所で水を浴びています(世界第3位とか)。

昔は水口が52あったとかで、大池と別に今も左右に沐浴できる小施設があります。男性はかなりの程度脱衣していますし、女性も衣服の濡れを全く気にしていません。(皆さんお参りの後、着替えています。)

ここで祈りの一夜を過ごす人もいるそうです。

そして私には印象深いのですが、この背景に実に立派な天然の岩が自然のまま沢山あります。ここが選ばれた一つの理由と考えています。

下の写真で若い人が無心にお祈りしていますが、上方を見てください、白装束の一行のリーダーがお歳で足も少し不自由なのにわざわざ背景の岩群に惹かれて登って行き鎮座しています。

若い人たちは行きませんが、明らかに(私と同じように)この岩群をも有難いものとして意識しています。日本の磐座に通ずるものがあると感じます。

そして正面からは見えませんが、本殿中央の上の裏奥に小さな祠のようないわば奥の院があります。

こちらは多くの人が正面横の階段を上がって行って見ており、お参りする人もいてお花や供物などが見られます。

当国はイスラム教の国と思われていますが、遺跡だけでなくこのように現在も種々の信仰、伝統文化がそれぞれを尊重しながら生きています、多様性の中の統一。

左手から登っていける山頂の方にはお墓も多いそうで、此処は明らかに当国各地で見られる万年の古い山岳信仰が受け継がれてきています。

(了)

 

 

 

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私がそういう目で見てしまうことも一因ですが、パンカル地域では万年の伝統を感じることが多いです。

休日朝に子供たちが清掃活動をしていることを見ますが、ちょっとした道路や橋の修復など公共のために助け合う、gotong -royongの精神が強調されています。

歴史教科書の先史大昔の項の記述でも、人々は既に助け合っていたとの記述になっていますが、学術的にも現生人類の類人猿との大きな違いはコミュニケーションとこの助け合いにあったことが裏付けられています。(下写真の格好はちょっと現代的なハイカラですが)

更によく見ますと、先取りした今の男女共同参画にもなっています。

旅しましたスラウェシ島のマカッサルの港町の像ですが、どこかの国のように空しいエライさんの像ではなく、伝統衣装を纏った父母、男女ペアの像で女性が前の、日本にまで共通する天照大神、日巫子の昔の伝統の母系社会を感じます。

そして、万年の遺物が残らないため注目されませんが、おそらくいろいろ活用されていたであろうと思われますのが、木と竹製品です。

隣の市のGarutの湖には、日本同様に足で漕ぐおもちゃ舟がありますが、ここでは万年の筏舟もあるところが正に人類史の百貨店です。

そして、日本に至るまで竹製品を佳しと感じ、生活のための素晴らしい芸術作品が生まれているところも正に伝統継承の技とらしさです。

実はこれらは、内陸で石器・金属を多用し寒冷降雪の地で大型哺乳動物を狩猟して切り裂き食していた人たちとの大きな違いの一つでしょう。

生活ぶりや気性も含め、現代があらためて注目すべき木や竹を多用した寒さのない地で魚介獲りする海・舟の民の特質をよく示すものであると考えています。私たちが忘れてしまった多様な魚獲りの木・竹製品も沢山あります。

(了)

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