当地の大多数であるイスラム教徒の大きな年中行事のラマダン(日の出から日の入りまで断食)月が始まる前日17日に出発し、始まった翌日に帰る長距離バスの旅をしました。

リュックを背負い肩に力が入って西ジャワを回った1年前とは異なり、今はほぼ通学の格好・荷物です~と出かけました。

距離の長さで途中の町の様子を、そしてラマダンの始まりの時期であるのでその様子をということです。

バンドゥンから東南に向かう中部ジャワ州、ジョグジャ(-カルタ)へのバス旅は、市内の東部から発着する分かり易いものです。

途中の大休憩を入れて往きはジョグジャまで13時間、帰りはその奥のソロSoloから15時間でした。それでも、上窓からの自然な風、2人用席を一人で、道が舗装され渋滞もなく、景色を観たり帰省の女子大生さんなどと話をしたりで苦にはなりませんでした。ともかく何でも初体験ですし。

長距離バス途中休憩

現代の街道沿いでしたので、店、イスラム教会、学校、官公庁、田畑、川と橋、山々、曲がりくねる山道、など西ジャワ州とそれ程の大きな違いはありません。

西ジャワの川は非常に深い谷が結構ありますが、中部ジャワの川は深くないです。

私にとって一番の違いは、屋根がトンガリ2段なのは類似ですが、千木を見ませんでした。

伊勢神宮・出雲大社などから、ラオス、タイ、西ジャワで見る建物上部の千木は、山道の州境を越えて中部ジャワに入ると見なくなりました。

そこの部分にアクセントがあるものがみられ、最早、千木ではないですが、この変化もまた興味深いです。

トンガリ屋根

そして、この州境はスンダ人とジャワ人の分け目でもあるところが、意味がありそうです。

さて、ラマダンが始まり、日中は屋台が閉店または開店休業してますのではっきり分かります。(それでも開いていて異教徒が食べる所はあります。)

早朝の暗い中、帰りを歓迎されていると錯覚するような灯りが通りに煌々とつき人々で賑わっていました。各地で同様の特売(日中は高い。)だそうで、夜明け後も我がバス停の上では続いてました。私には、師走の晦日あたりの感じです。

ラマダン店2夜明け特売

そして、今回、世界遺産ボロブドゥール、百万年前と言われるジャワ原人のいたサンギラン、何故か中米マヤのピラミッドと酷似していると言われている不思議なスクー寺院(修復中)と、人類の百貨店の主要階を観ました。

ボロブドゥール ボロブドゥール

ジャワ原人博物館 サンギラン

スクー寺院 スクー寺院

私にとっては、やはりバスを乗り継ぎバイクタクシーに乗り田舎の奥に行ってみて初めて分かり、感ずる大きな発見!が、それぞれにありました。次回から報告いたします。

先日、バンドゥン北方の行楽地で西ジャワ州教育局が主催するスンダの言葉や芸術の振興を図る催しに招ばれて観る機会がありました。

伝統の踊りや新たな装いの歌が披露され、州内各地の生徒たちのチームによる歌合戦もありました。

会場は満員で、地域の人々は廊下も埋め尽くして観ていました。若い生徒さんたちが多かったので、踊りの男女の絡みの場面では大歓声に包まれました。

踊り 歌

参加チーム 男女踊り

会場入り口では、分厚いスンダ語の辞書や人類の百貨店らしい多さを誇る民話が沢山並んで売られていましたのも印象的でした。(英)オックスフォードのOppenheimer教授が、大洪水話など世界に拡がった当地の神話・民話も一つの要因として、アジアの楽園を始源の意味を込めて「東のエデン」と表現したのもうなづけます。

民話

このように、国の統一をしっかり強調し施策している一方、失われていっている地域の言葉や文化を大切にして何とか伝えようと努力されていることに感心します。お国も町興しが課題のようですが、まずは伝統を見つめることからと思います。

そして、私は動き回れば、あ、ピラミッド山だ、バンチェンでも見た2段屋根だ、となります。タイ東北のバンチェンとバンドゥンの言わば郡部の一部の家の伝統的な造形の類似性に、旅したアジアの楽園内の距離の遠さを思うと不思議な気がしています。

ピラミッド 2段屋根

来年、日本で開かれるサミットの開催場所は、日本の美しい自然と豊かな文化、伝統を感じていただける場所として伊勢志摩に決定されたというニュースを見ました。 既にわがe-ブックを読まれた方はお気づきのとおり、私は伊勢神宮などの千木が、アジアの楽園内では普通に見られる点に注目しています。

「人類最古の文明『アジアの楽園』探訪記」(広報配信中)こちらをご覧ください。

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皇大神宮(ja.wikipedia.orgから)屋根の前後の千木

e-ブックで紹介しましたほかにも、例えば西ジャワのスカブミの古いオランダ洋館でさえ伝統様式として千木が見え、タイ・バンチェンの例もお伝えしたとおりです。

スカブミ洋館 格物館前タイ土産店

西ジャワ・スカブミの郷土資料から    タイ・バンチェン博物館前の土産物店

因みにスンダ゙のある人は、これに関する我が質問に対し、スンダ語で木が二股になっているのをチゲというそうです。私は関係あると思っています。

この類似性について、研究された資料は無いのではと思っていますが、この点を是非踏まえた上で誇るべきお国の施設に各国の首脳をご案内していただきたいと赤道を越えた島から気にしております。

本題の世界遺産バンチェン国立博物館の話に入る前に、軽い話題を一つ入れます。今回、楽園南から北まで動きましたので旅に関し、ルポを送ります。

1.治安

インドネシアのバンドゥン-ジャカルタの空港、タイのバンコク-東北田舎のバンチェンを動きましたが、バンコクの昼間、バス路線上は途中の休憩地点、深夜含めて治安上の不安は全くありませんでした。

2.バス移動

インドネシアの上記移動は、金・土は渋滞します。帰りのジャカルタ-バンドゥン間のバス移動は4時間の予定が5.5時間でした。タイは渋滞が有名ですが、今回の旅程では全くありませんでした。バスは安く、いずれもまあ日本同様で問題ないです。

バンチェン遺跡博物館は、ウドンからの長距離バスを降りて、3kmくらいのトゥクトゥク3輪車で60バーツです。帰りのバス停がないですが、ウドン方向への幹線道で手を挙げれば乗れます。

バンコク市内は、旅ガイドによると空港から街中へはタクシーを勧めてますが、大スーツケースを持たなければ、Informationで聞き、メモをもらいバスで移動するのが断然安いです。

私は、駅から市内移動でしたが、インドネシアのアンコッ乗合バスも負ける安さと走行距離です。

3.鉄道移動

実は神奈川県出身なため帰省経験がありませんので、寝台車に乗りたくてウドン-バンコク市内間を乗りました(19:20-翌朝06:00着)。

驚きは駅に改札がなく(その位置横に売店)誰でもホームまで行けます。(乗車チェックがしっかりですので、結局、用の無い人はホームに居ません。嚙みつかない犬が2匹入り込んでましたが)

ウドンの駅の構えは立派で、切符売り場も親切です。値段は、安宿代プラス安バス代というところで妥当です。

ウドンターニー駅

寝台車は、ベッド幅が十分で車掌さんがベッドメイクしてくれます。何故かインドネシアでないのにアルコールの販売・飲用禁止です。

ベッドメイク  アルコール禁止

実は寝ている間の盗難をおそれ、バッグは枕の下に、靴もビニールに入れて枕元奥におくという、北海道の雪穴就寝を想い出す作業をしました(雪穴では防寒靴は枕の代わりに、手袋は懐にです。起きた時に凍っていないように)

客は酒を飲まず、屈強なセキュリティと車掌体制で、更に早朝、トイレに起きて分かったんですが、他の車両に行けませんので泥棒は朝捕まります。(ので、大荷物は通路に置かれています。)

日本と違い、終着の1時間くらい前に市内に入るとベッドは撤収されて(そのまま寝てても可のようですが)、数は多くないですが通勤客が乗ってきます。

オバさんがモーニングコーヒーを販売にきますので、荷物を確認しhot一息の一杯です。何故か10バーツおまけしてくれました。

朝コーヒー

終着駅前で、線路に追い詰められたような産業廃棄物と最下層の暮らしを見ましたが、タイの表のモダンな顔とあまりに違うので、早く改善したらと感じました。小流とバナナで助けになっているのかもしれません。車窓から火炎樹が見えますが、インドネシアと同じ楽園の風景です。

線路脇のバナナ バナナは救い

4.宿

空港近くで安い所は離れており、タクシー移動にならざるを得ず、渋滞するので飛行出発までの十分な余裕が必要です。

5.必需品 両国とも通常品は何でも買えると考えてよいです。

6.バンコク市内

翌日に北空港からの飛行出発があるので、予定を変更し夕刻には空港付近の宿に入るべく、市内の駅に着く朝から午後4時ころと決めて新設の歴史博物館見学とバックパッカー聖地での古洋書・和書探しに絞りました。聖地も大分整理された感があるのは昼間だったからかもしれません。

パッカーの聖地

博物館は、230年前以降ということで、数千年、万年前を求める私には合いませんでしたし、歴史古洋書は見つかりませんでした。

結局、厚さ4cmの安いインドネシアガイドと中西輝政さん、ドラッカー経営本和書という結果でした。バスで市内を動きましたので、思いのほか中華系店が広域に存在していることを感じました。

アジアの楽園の西の雄タイは、できれば専門の先生を訪問したく、再度、行きたいと考えています。

期(学年)末試験を終え、早速、遺跡見学にアジアの楽園北部、タイ東北にある東南アジア最古という世界遺産バンチェン遺跡(7-5,000年前頃~1,800年前頃まで)を見学に行って来ました。旅行社で格安バンコク行きを買い、試験前なので遺跡の概要と行き方とバンコクでの見物をチェックしたくらいで出かけました。

ところが、ジャカルタの空港で便予定を確認したところ、時間、便名はいいのですが、行き先はこれまで何回かトランジットしたことがある市街東部の空港ではなく、北部の空港であることが分かりました。確かにバンコクの国際空港だそうですが、いやはやです。

バンコクなので、お寿司は控えるにしても旨いうどんにはありつけるだろうというささやかな期待はしぼみました。それはさておき、言葉も字も全く分からないタイ東北ウドンターニー(以下、ウドン)の田舎に行くプランは変更を余儀なくされました。大体、東京から青森に行く感じです。

今は海の上、かってはアジアの楽園だった上空を飛びますと生き残った島々が見えます。それにしても楽園は広かったなあ、多分何か痕跡はあるのだろうなと思いつつ。4時間で正午前に北部空港に着きましたが、駐機の飛行機も少なく記憶にあるあのバンコク空港での各国機の賑わいはなく、港内の店数も比較になりません。

うどんは全く無理と諦めました。Informationで行き方を聞きましたところ、お嬢さんが私の行きたい所をあの難しいタイ字で書いてくれ、外のバス乗り場〇番で〇〇行きに乗り運転手、車掌に見せなさいと言ってくれました(私にとっては通行手形)。

空港からの町のバス停と東北行き長距離バス乗り場は離れていますが、我々を町で降ろした後、空港へ戻るバスが、あんたはそのまま乗っていなさいと言い、途中、近い所で降ろしてくれる親切でした。

あとは、近くの店、バス乗り場、窓口、・・手形を見せて少しづつ進み、昼パンを買って便数の少ない出発10分前の東北行バスに乗れました。(実際の出発は、予定の20分後)

バスの予定では、到着は正に真夜中ですが何とかなるだろうです。実際、バスが着けば3輪トゥクトゥクの運ちゃん達が来て、値段を交渉して近くの適当な宿まで連れて行ってくれました。

出発してしばらく窓外を見てましたら、1時間ほどするとアレッ!?ラオスかな?カンボジアかな?という景色になってきました。

そして、ホントにびっくりしました。幹線道沿いに点々とあるローカルバス停らしき小屋があのバンドゥン・スンダの2段式屋根なんです。そして、看板で地名を確認すると(右下)ウドンにもバンドゥンがあります。

考えてみれば、バン コクなんですから、行きたい遺跡バン チェンがあり、バン ドゥンがあって不思議はない訳です。何せ楽園内のことですので!!。違う国、遠い遠い違う所というこれまでのイメージが、現場で変わりました。旅程は長かったですが。

2段屋根  タイのバンドゥン

2段式屋根、地名について、どっちからどっちに伝わったのかですが、アジアの楽園が沈んだ(7,000年前)後、3,500年前頃以降、学界では台湾-フィリッピン経由でアジアの楽園南部に人の大きな移動があったと考えられていますので、これもそのある時期ウドンターニー方面の方から南下し、ジャワ島スンダに伝わったのではないかと考えられます。

かって万年の昔、北上して行った人たちの子孫が、気候風土の違いから肌の色や容貌もすっかり変わり新たな経験を携え、長い年月の里帰り移動南下したのでしょう。そして、タイ東北のバンチェン遺跡などが川沿いにありますので、家財具・動物を積んだ船が活躍したと思います。

タイ東北遺跡 川沿い遺跡

タイ東北のバンチェン遺跡など  同遺跡は、川沿い(バンチェン国立博物館から)

1週間の期(学年)末試験が終わりました。やはり試験はそれなりに集中しますし、教室を出て2-3分で、あ!?間違えたと気づくことはしっかり覚えるでしょう。また、研究に向かえるウキウキ感もあります。さて、

インドネシアは、香港、オランダ、タイなどに次ぐ錦鯉の輸入国だそうで、アジアの楽園地区の伸びは大きいそうです。当地でも洋風ホテルのロビーとレストランの間に見つけて、へ~と思いました。水の流れは滝風で、そしてやはり船があるのが此処らしい。それらを佳しと感ずるところが楽園らしく、また、我が国の心情に通ずるものと感じます。

鯉 船鯉

同じく、やはり目貫通りのレストラン喫茶は、ゴルフ用品販売などと併設された当地ではこじゃれた店です。そのインテリアは、壁にはアート写真、そして日本では考えられない万年前からのくり抜きの舟と農作業の笠・竹籠です。外では、子供のおもちゃですが、竹のバネを利用したスタビライザー付きのよくできた物運び(写真では小石)で、大型の実物は、グヌン・パダン遺跡造りにも使われたんだろうなと思わせられます。

農漁舟 竹橇

日本の皆さんも連休で行楽地に行かれていることでしょう。

先般、半年の学期に1度の日帰り研修バス旅行に行き、レポートも提出終わりましたので、ご報告です。前回の旅行は、学生がルーズで7時出発予定が9時近くになり、5時起きで示された集合時間前に来ていた日本人組をあきれさせましたが、今回は名簿確認、Tシャツ及び朝食受領などの後、7時過ぎに出発できました。向かったのは、バンドゥン南東約2時間のGarut地区で、お菓子工場見学と観光施設でした。学生は遠足気分ですが、企業の工場管理、販促、問題点、助言など5枚以上書いて提出というのが気になります。

それはさておき、観光施設はNaga村でした。入口に此処スンダの人が大切にする小刀Kujangが飾られ、土産物店が並ぶ中を通り、川のある低地(比高差約15m)まで階段を降ります。途中で視界が開けると、教室で教わったように、川のそばに家々が並び田畑がある伝統の風景が目に入ります。130人くらいの人たちが今も電気の無い(!)昔の生活をしています。そして、やはりここでも家には日本の神宮・大社と同じく千木があります。

朝食 Kujangnaga村 千木

ウガンダからのイブラヒム君は、国のと同じようなものだと懐かしそうに杵を手にします。人だかりで見えませんでしたが、ナイジェリアからのファルーク君は、村の人が20cm位の竹楽器を口元で演奏している(写真は、budaya-Indonesia.orgから)と合わせてスンダの歌を歌って驚かせてくれます。西アフリカとアジアの楽園のスンダは近いです。

杵 imagesFGBI2U3W

お日様とともに暮らし、隣も分かる長屋で農耕と民芸品作りが生計を支え、子供たちは階段を上り下りして通学していますが、町の騒音とは無縁、リストラもいじめも殺伐とした事件もない穏やかな生活です。途中休憩のガソリンスタンド前の空き地には、グヌン・パダン遺跡と同じ柱状節理の石柱を輪切りにした造形の敷石が作業を待っており、雨で霞む遠方にはピラミッド山が見えました。

生活 6角柱

見学を終えてスンダレストランで夕食し帰りました。たまたま着席し撮った写真を見ますと、手前2人がアフリカ、次の右は高地人が万年の暮らしをしているパプア、左は黒潮先の薩摩おごじょ、奥の隣の席の向うむき最右がエジプト、こちらを見ている右はアジアの楽園、マレーシア国境に近いタイ、左はアイヌの展示の充実を発表した北海道の道産子と、人類の旅さながらのものとなっています。現在、日本と韓国がダントツで学生多数派の双璧です。なお、今回のnaga村は、川そば低地でしたが、この国には山中で今も頑なに昔ながらの生活を守っているバドゥイ族の人々もいます(写真下右)。そこは、天国への橋を渡って行く聖地ピラミッド地区に入った外部の者は生きては帰れないと言われる所です。正に多様で昔が残っている国です。

夕食 バドゥイ

カテゴリー: 当地事情

ここは、乾季(5・6-10月)と雨季しかないようです。赤道の反対なので、てっきり日本の逆と考えていました。先月末頃か、トンボが飛びましたので、いよいよ夏が終わり秋かと思っていましたが、今日学校へ行くときにセミがうるさいのに気づきました。家の前の森の木の上の方に緑鮮やかな新しい木が生えてきています。1本の木は、夏に葉が紅葉、落葉し、2週間くらいでまた新しい葉がつきました。最早季節感は混乱です。森の新木

此処の雨季は、日本と違って大体午後~夕方、すごい雷を伴って激しい雨が1-2時間続くというものです。めったに日本のように長くしとしとはないです。雷は確かに天、神が怒っているように感じます。そして、空が曇り、ぽつりと来たら10分足らずでザーときますので、ともかく店かどこかに退避です。携行傘では対応できません。洗濯物の乾きもイマイチですし、帰路は逃げてることもできず、日本人は乾季がいいと思ってます。食堂の人に聞いたら、雨季がいいそうです。やはり雨は涼しいですし、作物の恵みであり、そもそも彼らは出歩きませんので。

結局、1年中半袖で暮らしてますので、季節感を求める方が虫が良すぎるのでしょう。やはり、日本は情感豊かになる風土であるとつくづく感じます。

2015.4.18~24 アジア・アフリカAA会議60周年記念行事予定

バンドゥンの鉄道線路の南側地区の歴史ある第1回会議場においても記念行事が行われる予定です。

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2015.4.4-4.5 グヌン・パダン及びスンダ文化説明会

雨模様も何とかおさまった夕刻、グヌン・パダン後方稜線上の小学校において、地域の方々約50名に対して、遺跡の説明とスンダ文化の紹介が行われました。

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スハルジャ教授のお誘いで出席し、「アジアの楽園」の電子出版によりグヌン・パダン、スンダランドを日本に紹介したこと、メソポタミアより古いグヌン・パダンが、最古の文明を実証しうる重要な遺跡であること、何か出来ることでお役に立ちたいと考えて語学を学び滞在していることなどを説明しました。

お役に立ちたいというところで拍手がありました。

インドネシア大学UI生が、グヌン・パダン遺跡の状況、発見された遺物等について、スクリーンで詳細な説明を行いました。

次いで、スハルジャ教授が、スンダ文化に根付く星、星座と農耕の関係などについて、奈良がアジアの楽園とグヌン・パダンについて、建築家ポン氏が遺跡の構造、河川で繋がる地域との関係などについて、スンダ会が、活動の状況、文化継承の重要性等についてそれぞれ説明し、スンダの太鼓と子供たちの踊りの披露、スンダカレンダーの配布を行い、アクバル教授が、遺跡調査の意義、重要性についてシメの話をして終わりました。

その後、皆で夜食弁当を食べ散会となりましたが、金曜夕とはいえもう深夜近くなっていました。

研究者の人たちの遺跡の検討会といい、こういう会合といい、此処の人たちは夜遅いのをあまり気にしないようです。月が綺麗な滑る夜道をご高齢のスハルジャ教授と慎重に帰り、皆さんと民泊しました。

「アジアの楽園」ツアー募集

カテゴリー: 当地事情

なんとも嬉しいお話!

eブックランド社では、さっそく、特別企画を計画中!

「人類最古の文明『アジアの楽園』探訪記」の出版を記念して、
海外旅行会社とタイアップして、ツアーを企画してくれています。

旅程などの詳細は、これからの予定のようです。

http://www.e-bookland.net/campaign/150403tour.html

ツアー開催ともなれば、現地の説明役は、わたしになるのかな?

地域の状況

カテゴリー: 当地事情

こちらの今をお伝えしましょう。

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日本祭りと州パレード

カテゴリー: 最新情報,当地事情

小雨も何とか上がって、バンドゥン・ジャパン・ハウスBJHの皆さんが、若いインドネシアの人たちを指導支援した日本祭りが10月26日に行われました。

会場は、沢山の若い人でブースは押すなの盛況でした。

私も原宿やアキバで見たことあるような格好の人が目につきますが、その結構肌を露出した人と普通にジルバブ被った娘さんたちも沢山来ていましたので、混じり合って日本と違う感じです。

特に、BJHの大和田さんは、ゲームビジネス開発で出店しました。また、和装・折り紙コーナーなどもありました。

かねてより、此処の若い人たちが日本ひいきなのは知っていましたが、凄い勢いです。
命をあずける車とバイクが殆ど日本製で、若者カルチャーもこれだけ人気があると嬉しいことです。

此処には、日本レストランのほか、もどき安価ラーメン店などもあります。どらえもんも人気で、私も勉強に原語で読んでいます。

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そのまま、州庁舎に移動しパレードを観ました。

着いて最初に見た異様な恰好は、此処の人が仮装しているパプア高地人です。実物の結構大きい蛇を持っていました。
串刺し焼き鳥デザインの庁舎前でお披露目したあとどんどん歩いて出て行きます。

全身葉に覆われた迷彩の狙撃手のような格好の組もあれば、めでたい若いカップルの伝統的な地域の衣裳の組や王様を囲む行列、はたまたそのまま出れば紅白歌合戦の小林幸子と張り合える人もいます。

やはり此処からかと思わせるなまはげの組、日本と同じ婦人連の踊りの組、などにぎやかです。

結構多いのは、やはり農業、漁業に絡んだもので納得です。大鳥が登場してるのも私には納得でした。

あらためて、インドネシアは多様だと感じました。

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