「日本祖人」、入れ墨にも残る沿海南方型の痕跡!

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第2図、HB抗原ウィルスの分布から、南方型の痕跡が東北北部に色濃く残り、また、水稲耕作の北九州からの北上、途中での”足踏み”後の東北北部に至る拡がりとHB抗原の南方型分布との興味深い符合などが分かりましたが、更に、第1図、入れ墨の歴史があります。

大陸の内陸種族である「魏」人は、倭人や沿海の越人に対し、入れ墨をして海に潜り魚を獲って食すヘンなヤツらとの認識を魏志「倭人の条」に書いています。この倭人の特徴の入れ墨は、習俗として沖縄の女性に残るのみならず、鎌倉時代に北の方から北海道に入って来て混血が進んだアイヌの女性にも見られ、その伝承では(先住の)コロボックルのものを真似たとあります。このコロボックルについては、我が国人類学の祖とされる明治時代の坪井教授が、北海道での現地研究から、アイヌの伝承は信頼しうるとして唱えたものです。その後、鳥居龍蔵が北千島(伝承でコロボックルが逃げて行ったと言われる)の現地調査を行ったものの、コロボックルはおらずそういう話も無いとして説は立ち消えました。

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今になれば、鎌倉時代頃からの話が明治になって無いからといって存在が無かったとはいえず、来日学者のモース博士(大森貝塚を発見)は、「プレアイヌ説」で、アイヌの前に先住者が居たと指摘していました。当時は全く想像すらできなかった日本祖人、次の縄文人以来の北海道の万年前の先住者に具体的な想いを致すことは容易でなく、他の来日学者がアイヌは白人系であると言った誤解すら、今も根強く尾を引いています。さて、出アフリカ後の現生人類が、南方から北上して来て北海道にまで拡がった日本祖人が、そこで停止する理由もなく北上を続け、千島列島や樺太の方から、「最初のアメリカ人」についての最新説「北太平洋沿岸を舟で“昆布ハイウェイ“に沿ってアメリカ新大陸に入って」行った可能性が注目されています。

従って、博物館等で日本列島に北・西・南の3方向から人々が入って来て混ざり合って「日本人」になったという図が見られますが誤解の元です。南方から北上した始まり万年の一方向性の基層を誤解させるものであり、そのルーツは「西太平洋沿海原族」で、「曙海」を渡って北部九州にやって来て始まった南方型です。その上に時代が下ってから北・西・南ルートで、大陸からの出戻りを含めて人々が渡来し混血し、地域の文化を育み現在に至っているものです。

 

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