日本祖人(仮称)論について―Teori tentang asal manusia modern permulaan di Jepang

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Nara Akira http://www.sunda-wind.net

このホームページでお伝えしていますが、最初に新大陸アメリカAmerikaにやってきたdatang ke Amerika のは、どんな人たちが・どこから・いつ頃siapa, dari mana, kapanかという問題が、ハーバードHarvard医科大チームによる南米の部族のDNA調査によって明らかになりました。(環太平洋海浜・舟行ルートRLPP説を参照)

そして前回、我々日本人にとっては、縄文時代の更に前の時代dulu Zaman Jomonの語られることの少ない最初の現生人類の日本人、即ち日本祖人(仮称)asal manusia modern permulaan di Jepangの状況について、そのイメージgambaranを与えてくれる重要なことを含んでいることが注目されますtertarik。

現生人類Asal manusia modernが、氷河時代zaman es にアフリカで誕生して出アフリカを果たしdari Afrika、当時は130-150mくらい海水面が低下していたために現れていた広大な海浜ルートをアジアの楽園Sundaland地域に至り、豪や日本などへと展開tersebarしました。

アジアの楽園Sundalandは、氷河時代にあってもpun zaman es長い間の恵まれた環境条件(気候・食物等)lingkungan bagusにありました。

多くの人たちが今のヨーロッパseperti masyarakat Eropaのようとでも表現すべき河川の多い広大な地域で文化budaya(渡海能力、洞窟goaに残された世界最古の手型cap tanganや動物絵lukisan binatangなど)を育みました。

今回のハーバード大の調査のほか、縄文人のJomon jugaDNA調査でもこのパンカルPangkal(仮称、元々の意)地域の人たちとの近似性samaが確認されており、彼らはやがて北上ke utaraしました。

当時の気温suhuは、何千年かの周期で寒暖を繰り返していました(欧州では3.85-3.7、3.5、3.35、3.2万年前頃が比較的暖かい時期)ので、暖かい時期masa hangatに日本にやってきたke Jepangのでしょう。

そして一番の特徴は、この海浜・舟行のパンカル人の子孫keturunan Pangkalが、太平洋側はもとより、日本海側も正に黒潮と対島暖流の流れの方向どおりに九州dari Kyusyuから沿岸地域を北上tersebar ke utaraしていったことです。

そして、2万年前頃に大陸沿海州地域から大型哺乳動物の狩猟を主とする人たちが樺太から南下して来る1万年以上前にsebelem bangsa daratan Rusia datang 、北海道にまで達しているketurunan Pangkal sudah tiba di Hokkaidoことです。

 

それは、この時代(後期旧石器時代前半)の日本本土で見られる石器の形式が挙げられますditunjukkan bentuk alat batu。

九州から北海道までdari Kusyu sampai Hokkaido各地において同じ特徴の2種組合わせdua jenis のもの(ずんぐりした槍先石器と打ち剥ぎを重ねた石の刃型石器)で、同じような狩猟等を行っていた均質性homogen suruh Jepang urtara dari Kyusyuが見られることです。

また、既にお伝えしたように、伊豆半島南方の神津島Pulau Kouzushimaへ少なくとも10数kmを渡海し黒曜石obsidianの入手に行き来し、かつ広く交易perdaganganしていた活動(3万2千年前頃)が確認されています。

このことからも、世界人類史の流れの中で海浜・舟行の民を主とする日本への進出展開Pangkal ke Jepangにより、我が国の基本が形作られたmembentuk dasar Jepangものと考えられます。

そして、万年に及ぶその生活に広く均質性homogenが見られることが、この人々を日本祖人と呼ぶ所以です。

縄文土器時代(16,000~3,000年前)の前といえば、一つの特徴は黒曜石obsidianでしょう。神津島だけでなく海を越えて隠岐の島pulau Okinoshimaまで獲りに行っています。

遠軽町Engaru白滝の黒曜石obsidian Shiratakiは、樺太や沿海州でも見つかっているditemukan di darat Rusia Timur貴石の交易の広域さです。

日本祖人asal manusia modern Jepangは、アメリカ新大陸との関係hubungan darat Amerika で世界の人類史上dalam prasejarah duniaで注目tertarikされます。

そしてその生活と活動はkehidupan dan kegiatan itu、独自性ある文化budaya sendiriを伴った内実のあるものであり、命名に相応しいperlu dinamai ものです。

実は、日本にも私たちに繋がらない旧人はいましたorang-orang paleoantropik ada。

日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく遺跡の発見が難しいですが、金取遺跡(9~8万年前puluh ribu tahun lalu)や砂原遺跡(約12万年前)などで旧石器などの遺物が発見ditemukan alat batu kunoされています。

進出展開してきた日本祖人とこれらの旧人asal mansia modern dan merekaが接触したのかapakah kontak、どのように交代していったのかは謎misteriです。

バンドゥンでもパレードで日本のなまはげを見ますが、鬼も含めてsetan、私は現生人類が旧人と接触したころの記憶ingatan kontakの誇張ではないかと思っています(余談)。

さて、欧米Orang baratでは万年の先史時代の人々manusia prasejarahを狩猟採集の民としていますdisebut Hunter Gatherer。

しかしTetapi、東京市ヶ谷(当時の海に近い)縄文人bangsa Jomon di pusat Jepangの食生活を調べたら、魚貝、芋・どんぐり、イノシシなどを食していました。

水産物(川を含む)を得ることを漁撈mengambil ikan dan kerang-keranganとすれば、既に述べてきた日本祖人の生活は、その進出展開の流れから漁撈及び狩猟採集の民bangsa hidup oleh produk pulautan・sungai dan berburu-buru, koleksi tumbuhan liarと表現した方が良いと考えます。

時代を経て大陸から多くの人banya orang dari darat Eurasia datangが入って来てすっかり変わったmengubah今のアジアの楽園Sundalandの此処バンドゥンBandungでも、あちこちの様子を学んでいて万年を感じさせるmasih merasa prasejarahものがあります。

バナナbanana・椰子の実kelapaなど果物野菜類の多さbanyaは、大昔と種類は違っても楽園の豊かさsurga yang kaya rayaを感じさせます。(子供のころを考えますと、バナナや椰子の実、パイナップルがこんなに無造作に扱われているのは思いもよりません。)

また、沢向こうの博物館museumには黒曜石obsidianが展示されており、隣の市のGarutは有名な原産地で良い宝石の採れる町tempat yang batu permataです。

日本人bangsa Jepang といえばまず生魚サシミを好んで食べるsuka sashimi民であることが特徴であり、日本祖人の暮らしは受け継がれていますsama dengan asal mansia modern permulaan di Jepang。

そして、少し前までは歌っていましたlagu juga menunjukkan「我は海の子」も日本祖人の暮らしを偲ばせます。

(けむり)たなびくとまや(*苫屋)こそ
我がなつかしき住家(すみか)なれ。

pondok hanya yang dibuat kaya dan rumput, dilihat asap kehidupan adalah rumah rindu yang saya pernah hidup di samping pantai.

*苫とは – (すげ)・(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い雨露をしのぐのに用いる。(歴史民俗用語 Weblio辞書)

海辺(約130m海面上昇)・川辺の遺跡は発見が困難susah ditemukan jejakですが、私はパンカルhubungan Pangkalに繋がる日本の始まりの原風景pemandangan Jepang permulaanが見えたと感じています。

 

 

 

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