(東京・札幌五輪) 日本人は何処から、何故分かり難いのか?

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明治時代に人類学が確立してから、先人は標題について、おそらく南方が原郷で、遠い3~4千年前のこと、大森貝塚人はアイヌと違う古い人たちだとか、北海道に背の小さいコロボックルが居てアイヌにいじめられて千島の方に逃げたとか、研究と活発な論議をしていました。さすがに、現在の世界の全ての人がアフリカ発の親戚にはびっくりでしょう。しかも日本に来たのはゼロ一つ古い遠い昔でした。しかしモンゴルの方や東南アジアまでを実際に回った研究者たちの知見を合わせてまずまずの認識であったと言えますし、実は、アイヌに追われて逃げたというコロボックルも、 今は 始まり史に十分に意味が出て来ていると考えています。

その南方について、第1図は、朋友のDhaniが、スンダランド地域で近年明らかになった旧石器遺跡を、数字年代を添えて地域の基本となる21,000年前頃の地形に整理したもので納得です。右側に日本での祖人の拡がりを付記しました。出アフリカ後に同緯度地域を東進したスンダランド、そしてさらに東進後に渡海して南下した豪州入りの早かったことは、世界の学者の等しく認めるところです。海辺のマングローブや海浜、熱帯雨林と草地の暮らしで黒褐色に変異したでしょう。縄文人よりはっきり古い骨格の沖縄港川人は、近い中国大陸の古い現生人類と思われる人骨よりもインドネシア・ワジャック人に似ていることも南方原郷を支持します。さて、太古からの東アジアの人を認識するのに、1775年、(独)ヨハン・ブルーメンバッハの区分である黄色系モンゴリアを今も使用しているのが誤解の元です。時間的に新・旧、空間的に北・南モンゴロイドと言っているのが問題です(欧州学者にはそれだけジンギスカン・マルコポーロ東方見聞録のインパクトが強かった)。

第2図 ①~④のこの見にくさが、正に原郷の分かり難さを象徴しています。始まりの①黒褐色の祖先“インマレイド“(当時のアンダマン諸島~ニューギニア地域の人の仮称)が、第2図北上して①’内陸インマレイドと日本列島の①”沿岸インマレイドの大きく2変異が生じたでしょう。①’内陸人については、ヒマラヤ山脈があり、その南山脚を東進し内陸を北上するルートのように遺跡が残っていますが、ヒマラヤ東方高地の険しい地形・気候や猛獣・蛇・害虫などの厳しさを考えれば、それぞれ沿岸から河川を遡行して川上地域に残した遺跡とも考えられます。さて、出アフリカの後、北上し中央アジア、シベリアを東進した②シベリア人も西方から加わります。そして、2万年前~数千年前に厳しい寒気と降雪の環境に身体そのものが適応して変異した3Mの正に「モンゴロイド」が登場します。此処で、大陸内部で①‘、②、3Mの3者が多様に混じり合いますが、④とします。この④が時代を異にし、南下東進して特に内陸に大きな影響を及ぼしたのがアジア人類史の概観なのです。

つまり、始まりの北上①系の上に複雑混合した④が時代と規模を異に各地で各様に“上書きされている”ので、分かり難いのです。但し、①‘、②、3Mが個々に入って来たのではなく、その既に混合した④が東南アジアや日本などに来たのです。それでも日本は島国でしたし、東南アジア特にその陸地部とは上書きの程度が違い、また、大きな民族の流入といったこともなかったようです。マンモスハンターの、稲作渡来民族の、騎馬民族の流入はなかったとみられます。日本各地に中華、韓国焼肉、スタバ、マクドなどが溢れていますが隣国、欧米人の流入数は多くなく、五月雨渡来です。そして、北海道・遠軽白滝や九州・ 腰岳 の黒耀石が、周辺の大陸のかなり入った所で発見されていることは、彼らが来るだけでなく、祖人が、北海道や九州から外に出て行った可能性も示しています。

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今までの日本学界はこのことを意識していませんでしたが、上図左シベリアB(②+④)だけでなく日本列島A(①“+④)の祖人が、もしかしたら④が加わる以前にもベーリング地峡沿岸を越えて入って行った「最初のアメリカ人先住民」の候補という訳です。

次回は、何故分かり難くなっているかの原因でもある原郷の激動を紹介します。

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