(夏休み宿題準備) 新テーマ、アジアから行った2万年前の大谷翔平は誰だったのか?

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大谷選手の大活躍の蔭で、①世界人類史・日本史界では、米ニューメキシコで発見された足跡(2.3-2.1万年前)が騒ぎです。

既に、DNA分析や考古学から「最初のアメリカ新大陸移住人」(PAC)がアジアからは定説ですが、「いつ?」が数千年遡っただけでなく、モンゴロイドではなかった事、もっともらしかった「バイカル湖の方からマンモスを追ってシベリアから入って行った」も、数人での槍持ちハントは実験考古学で否定されました。何しろ肝心のシベリア東端・アラスカに対応しうる痕跡が見つかっていないのですから正に謎なのです。そんな古い事は関係ないと教授ですら言いますが誤解です。殺し合いの未だ無かった時代の万年前のアメリンドの拡がりは、DNAが薄まっても消えても暮らしぶりや精神面で大切にしたこと、言葉などは底流に今も受け継がれていると考えるべきなのです。人間の脳は建て増し建て増しであって太古は残り、リセット型ではないのですから。足跡発見で、北米遺跡は全てがずっと新しいことになり、舟で行き着いたと考えられている南米が注目され、信頼性が高いモンテ・ヴェルデ遺跡(チリ)で20種の海藻が生活に生かされていたことが分かり、あらためてKelp昆布ハイウェイ(えんじ色)が注目されていますが、日本列島はすっぽり入っているのです。

その日本については②下、ラオスで8.6万年前の人骨が発見され、遺跡的にはインドネシア・スマトラ島(当時は大半島)、ラオス、フィリッピン・ルソン島とスンダランド・パンカル海の周りの南方が源境として、また、DNA的に南印アンダマン-ラオス-北京・田園洞人-愛知・伊川津縄文人の類縁性が言われていましたが、そのラオスに今回の古痕跡発見で強力に補強され、伊川津の隣の浜北は仲間の縄文人の前の祖人骨も発見されていますし、3.8万年前の伊豆の海・舟民や愛鷹、長野と石器がしっかり支えていますのでこれらが繋がります。北上した祖人Sojinは、仙台で北の暮らしの予行を行い、東西が合一した賑わいの青森・陸奥平野を基盤として3.5万年前後から道東に進出し(巷間のマンモスハンタは来たは誤解)、「道東ゲートウェイ」から樺太・千島へ北上を続けたことでしょう。沿海州アムール川畔でも発見されている白滝黒耀石が国宝に指定答申されています。さて③千島方面ですが、30数個の島々は次々に見え、最大島間離隔は約75kmですが舟で行けない距離ではなく冬は流氷を歩いて行けました。最北端の占守島で、少なくとも6千年前に海民の暮らしがあった事が発見され北海道大学から報告されています。問題はこの議論において内外でアイヌの名が出ますが、樺太の方から始まりのアイヌ文化は13世紀からの事で、6千年前の事や北千島の遊動海民の対象に名が出るのは対象外の誤解です。

中世から確認されている、「余程古い、コロボックルである」(東京帝大 坪井、鳥居)とされる自称「西の人」の留頓(ルートンRouton)は、かつてはカムチャッカ南南部に進出していてそちらが主体だった事が明らかにされており、おそらく更に北方に居たのが新来のイテリメン(カムチャダール)に押されて後退して来たとも考えられます。となればベリンジアは沿岸伝いの指呼の間ですから、痕跡発見の無いこの地域に関し候補となる重要な資格を有します。謎の地域の痕跡は簡単には分からないでしょうから、周辺から理論的に迫ることになり、地域的には南方から南米まで、分野ではDNA・考古学・古環境・古生物・・・テーマは大きく拡がっていますし、このような事を今の教室は扱っていませんので多様で斬新なのです。

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