日本祖人の痕跡を探る。

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産経ニュースで、かって存在した半島大陸地Sundalandの西のアンダマン諸島の原始的なセンチネル族の恐ろしい状況が報じられました。

出アフリカ後の日本祖人の足取りを考える上でこの地域は極めて重要であり、4万年前頃に日本列島に現生人類が至るルート上の要域です。

この地域では、今回のアンダマン諸島の他、マレーやパプアニューギニアの高地族など石器時代の部族かと言われる人たちが、今もそんな暮らしぶりを守っています。

が、結論的に、我が先人の様子は違かっただろうと考えます。

インドネシアのジャワ島西部バンテン州南部のインド洋に面した山中にも、石器時代的ではないですが、少なくとも何百年と暮らしを守っているプロト・マレー系のバドゥイ族の人々が居ます。

バンドゥンの都会からバンテン州を訪れていて、広報担当の人たちと下山してきた彼を初めて見た時は、やはり驚きと遥かな歴史への感慨を覚えました。

さて、件のアンダマン・センチネル族などですが、赤ん坊をロンドンに連れて行けばちゃんと学校を出て社会人になれるだろうとみられています。

彼らは、明らかに外部と接したときに悪いことが有り、トラウマとなって部族の保存を図るためにこういう生き方になったのでしょう。

Sundalandの地域が、そして最近明らかになってきましたが南米のアマゾン地域でも石器時代的と言われる部族の存在がいろいろ新たに確認されていますが、やはり暑い暖かい赤道地域の環境であることが大きな要因でしょう。

10万年前頃に出アフリカを果たし、8~7万年前頃にSundalandに来て豪州に6.5万年前頃とすると、北上した日本列島が4万年前(40ka)頃というのは、緯度北上の厳しさを表しているのでしょう。

そして、日本列島の北上では4~3万年前の約1万年かかってますから、ここでもやはり緯度北上の厳しさが感じられます。

なにしろ、北海道の冬は、本州と異なる寒さと雪ですから。

(ところが実は、この北海道と北のベーリング地峡南岸の差の方は、海の影響からかイメージ程でなく、北上して渡米し得たものと考えています。)

センチネル族やバドゥイ族は、日本祖人を考えるために参考になりますが、例えば衣服一つ、食べ物、寝る住まい一つとっても全く違う暮らし振りだったでしょう。

そして現生人類は、のどの進化に加え数~5万年前頃までにはおそらく複雑な言葉の使用を可能にしたと考えられる、飛躍的な脳の働きの進化を遂げたようです。

ともかく、日本列島に来た頃には、私たちと遜色なかった素質をもって家族で海を越え環境に適応を果たしていったことでしょう。

3.7万年前頃には、日本祖人が伊豆・神津島に十数kmの外洋を舟で渡り、行き来して伊豆から南関東の広域で黒耀石を他のモノと交換していました。

また、2.3万年前頃の沖縄本島南部のサキタリ洞窟では貝製の磨かれた釣り針(世界最古)も見つかっています。

そこでは、3.5万年前頃には居住が始まっていたとみられ、九州からトカラ列島を南下したにしろ、宮古から200km以上の海峡を越えて北上したなら、それなりに進んでいた社会を思わせます。

縄紋時代以前は原始的、石器時代的とする意味内容は、近年になってイメージの修正を求められていると考えています。

自然を畏れ敬い調和して暮らし、後の縄紋時代にも列島内での殺し合いはあまり無かったようですし、何よりもイジメや生活苦などで自殺する人などはいなかったでしょう。(子供のなんて、考えられません)

インドネシアでは、男女が役割を担い、社会が助け合って成り立っていたと教えています。

原始は遅れていたと考えられがちですが、自然を畏れ敬い調和して暮らすことは、「幸せ」を尺度にすれば月に行くことよりも大事なのではと思います。

(了)

 

 

4万年前の始まりの日本祖人を探るのは容易では有りませんが、日本人は虫の声が聞けることから人類史の不思議に迫れ、そのことがまた、日本祖人の理解と確認に繋がります。

世界でコオロギや鈴虫などの虫の声を、雑音ではなく声として右耳から受け止め左脳で言葉のように聞いてる、聞けてるのは、実に不思議な事に世界で日本人とポリネシア人だけなのだそうです。(東京医科歯科大学の名誉教授・角田忠信先生)

チンチロ チンチロ チンチロリン あれ 鈴虫も鳴き出した ああ おもしろい 虫の声 -こんな変な事を言うのは日本人くらいで、他所では気にも留めない、どうかすると殺虫剤でも持ってこようかという対象です。

さて問題は、何故、ポリネシアなのかなのです。

現生人類は、出アフリカの後、東進してSundaland、そしてその方向でオーストラリアへと北上して日本へと、展開を続けました。

このSundalandが、アジア史における「補助線」でして、大半島陸地が2万年前頃から温暖化の海水面の上昇で沈み始め、1万年前頃には過半が沈み、インドネシアの現在のようなバラバラの島々になりました。

第1図

その東方を含めたSundaland地域は、①出アフリカ後の重要地域で今も痕跡が残っており、②特に5千年前頃、中国南部から大きな人の南下移動があり、はっきり混血が進みましたので分かりにくくなっていますが、百万年前のジャワ原人以来の恵まれたと言っていい地域なのです。

さてポリネシアは、よく古い人類の移動に関する問題で話題となります、例えば米西海岸ワシントン州で発見された9千年前頃のケネウィック人を復元した際に、誰に似てるかでポリネシア人も名が上がりました。

しかし、上の図のように②で南下した人たちがSundaland地域に至り、ポリネシアへの展開して行ったはせいぜい3千年前頃からの新しいもので、端のハワイやあのモアイ像のイースター島は、紀元後7~900年前頃という最近のことなんです。

ここで、

1.南下した人たちは、中国南部・台湾からと言われてますが、彼らは欧米人などと

同じく虫の声を聞けてません。同じく南下を受けたインドネシア人も聞けてませ

ん。

2.何よりも途中通ったミクロネシア、メラネシアにもはっきり見つからない。

それでは何故?となりますが、先ず、補助線のSundalandに鍵があるでしょう。

出アフリカ後の①の人たちが、Sundalandを経て北上し、日本を通過して行ったわけです。

日本にも2万年前頃には、大陸から狩猟族の人たちが入って来て元の祖人と合わせて縄紋人となっていきますが、虫の声が聞けてるのは、それ以前の始まりの日本祖人の影響が大きな影響、即ち基層が残っているからだとなります。

そこで、虫の声を聞けていたのは①の時代だったのだろうとなります。

ポリネシア人の祖先は、その後の5千年前頃には南下して来てSundaland地域で混じって、更にミクロネシア、メラネシアの一部を経ていますが、上図の①移動時代のSundalandの痕跡をひとり今も残していると言う訳です。

これらは何故か?

日本もポリネシアも行き止まりの端の国々だから、①移動時代のものが残ったのだろうとなります。

世界でわずか2つの端の地域で虫の声が聞けるという事から、人類の移動、日本祖代の事、日本祖人と縄紋人・現代人など様々な事に思い至ります。

2万年前頃、大陸の狩猟族が北から、西から入っても、始まりの日本祖人の文化が失われず基層として、縄紋を経たその後も稲作族などが渡来してこようとも残ってきたことが重要です。

ところで此の虫の声が雑音ではなく聞けるという、この残った感性は何なのでしょうか?

それは自然を尊び、木々にまで神が宿るといった心性に繋がる大切な事で、生活、芸術、発明、仕事など万般の日本人らしさに及び、世界にとっても独特の意味ある事でしょう。

あ~、う~母音の、虫がチンチロリン、雨がしとしと、と教えてくれるお母さんに抱かれた母国語が決め手であって、DNAではないことが重要です。

お母さんは、わずかなGNPの押し上げなど比較にならない極めて重要な人です。

(了)

 

 

 

いよいよ大寒です。

ロシアの方から、東シベリアのサハ共和国(正に下図シベリア)で車が故障し歩いた2人が凍死したとの悲報が届いてます。-65℃という凄さです。

成る程、日本祖人がベーリング海峡を越えてアメリカに入って行った、という話をしても「シベリア」と聞けばやはりムリだと思いますので補足します。

大方の学者さんは、シベリアからアメリカへ入って来た、それも従来定説の無氷回廊ルートではなく、北太平洋沿岸の昆布Kelpハイウェイ沿いだとなってきています。(回廊が開通する前にTexas, Oregonに現れてる遺跡が発見されています)

そして、東シベリアやアラスカ内陸の厳寒を考えれば、当時のBeringia地峡が比較的厳しい寒冷でなく、低木・草地ツンドラでヘラ鹿などもいたようなので、気温のいい時期に地峡に来て、氷期が終わる15-13,000年前くらいまで、一時滞留していただろう、溶け出して動き出し米本土に入って来たという説なんです。

問題は、カナダ・アラスカ国境で確認されたムツ洞窟遺物が、24,800年前と発表されていますので、此の事と矛盾しています。

また、シベリア人というのは、バイカツ湖地域Malta遺跡などからの人達となりますが、現在の北・南アメリカのNativeインディアン・インディオの人たちとDNAが違うというので、従来の単純な説ではないのではとなっています。

当サイトは前回報告しましたように、日本祖人が北海道から北上でき、Bering地峡沿岸を行くルートが米臨海などの諸要因から有り得たと提唱していますが、内陸の想像以上の厳寒から、あらためて意を強くしています。

旧石器時代の人たちが、厳寒のシベリア内陸に長期存在して地峡を越え、古いアメリカの遺跡に登場するのは、ムリだと考えます。北海道から沿岸を、でしょう。

氷期でない、温かい米臨海ではない環境の今の気温ですが。

先生、ハワイに繋がる米臨海も考慮してください、そして、カナダ・南北米の古い遺跡を苦労されて分析した結果を認めてください。

想定よりも早い時期に渡っていると思います。

最後に、地図を作っていてふと思いました。

学者先生はあり得ませんが、ロンドン中心の地図を小学校から見てる人たちは、右端シベリアから左端アラスカへ渡って行くことは、議論どころかイメージすらし難いのかなあと思いました。(失礼!)

(了)

現生人類のアメリカ新大陸への進入は、ギネス記録的にはアラスカ進入の時期になるでしょうが、人類史の意味的には米本土に進入し南米にまで拡がった事が焦点です。

かっての定説であるシベリア~ベリンギア(地峡)~アラスカ・カナダ内の無氷回廊という陸路の通過が覆された(回廊開通よりも古い遺跡が米本土で発見)ため、沿岸ルート(食料豊かな沿岸の昆布Kelpのハイウェイ)ということで、その時期が議論を呼んでいます。

第1図

大方は、シベリア~ベーリング地峡地域の厳しい寒冷から、氷河期の最も寒かった時期LGM(2万年前頃)の後、氷河期を脱した18,000年前頃以降をイメージしています。

ところが、南米で23,000年前かというブラジルのSanta Malia遺跡が発見され、年代を含め問題となっています。(大西洋横断ルートは、この時代ではトンデモ話です)

そこで渡米問題についてですが、先ず第1に当時はベーリング地峡によって北極海の冷水とベーリング海が分離された「米臨海」であり暖かいハワイに繋がる海でした。

実は、この認識が無い事が大きな問題です。

第2図

此の事が、当時のこの地域の沿岸の気象、海象、動植物などにいかなる影響を及ぼしたのかを考察し環境を推論した研究は無く、氷河期が終わるまではムリというのが大方のイメージです。

また、地域のこの時代の遺跡の見つからなさも原因で、ベーリング地峡地域では14,000年前がせいぜいというところです。

開発が進む日本のこの時代の北海道には、十勝をはじめLGM前の有力な遺跡がいくつもありますが、千島列島(中、北)、カムチャッカ半島には見つかっていません。

シベリア、アラスカ・カナダでは、下図のYana川畔遺跡とムツ洞窟遺跡のいわば単発の状況ですので、北海道~千島・オホーツクからと考えるべきですが、氷河期の寒さが検討を阻んでいます。

この地域の真冬は、-40~50℃がイメージでしょう。

第3図

ところが沿岸に注目しますと、そのイメージとは全く異なります。下表のとおり、ベーリング地峡地域でも内陸と違って岬では—24℃くらいであり、帯広の—20℃の暮らしを経験していれば不可能とは言えません。

また、何よりも下表右のように、16~14,000年前くらいにはベリンギア沿岸を米本土に来ていますから、最寒期LGM以前の同様の気温の時期には来れるチャンスがあった筈です。

第4図

この通り、沿岸地域では不可能でなく、氷河期の寒さも米臨海の比較的な温かさで緩和されていた事を考えればあり得たと言えます。

最後に北海道ルートについてですが、上第3図の千島列島ルートと樺太・沿海州地域からのオホーツクルートがあり、寒さの沿岸気温は前述のとおりですので、千島の島々を経ることが難しかったろうとイメージされています。

しかしこれもよく見れば、次々に行く手の島々が見え、独り占めしうる食料も期待できましたので、乗り出さない、乗り出しても渡米していくのはムリとは言えない状況なのです。

第5図

そもそも日本列島にやって来る時に家族で8okmくらいを操舟して曙海(九州西部~南西諸島~当時の北東ア平野に囲まれた海)の五島・対馬正面を越え、伊豆神津島の黒耀石を獲りに行き来し、道東に来て雪と寒さの中、海獣を獲って暮らした海の民の子孫ですから。

やはり、こちら側と似た鏡面対称性あるあちら側へ、比較的温かい時代の夏などに暮らしを築きながら昆布ハイウェイを行けたと考えるのです。

第6図

米本土内及び南米への拡大と発展は、その後陸路を無氷回廊が開通した後にやって来た、戦いに強かったシベリアからの人たちだったのでしょうが、先住民の痕跡はアマゾンやアンデスなどにあるようです。

(了)

 

環太平洋種族の成人通過儀礼

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成人の日は、悪質な着付け業者に騙されたものの、善意の人々や自治体によって何とか泣きかけた多くの娘さんが式を祝われたことが話題になりました。

実はこの成人行事ですが、環太平洋地域における大昔からの通過儀礼としての共通性が注目されます。

その特色は、抜歯や胸ピアスなど身体を傷つけることや時には死傷の危険性のある行動が求められることです。

人類始まりのアフリカの一部にも見られますが、環太平洋地域の種族の際立った特徴であり、欧米白人やモンゴル、ツングースなどの内陸部には見られないもので、人類の環太平洋移動・移住MPOR説の歴しニアとしては注目しています。

上図左下のインドネシア・スマトラ沖のニアス島は、戦いの陣羽織、裃が余りに江戸侍ものに似てますので、日本のチャンバラテレビを観ると、あっ、ニアスだ!となります。

また、跳び箱がオヤジには懐かしいですが、大人になるために石の跳び箱を手を突かずに空中を飛び越える戦士の能力を求められます。

かっては、跳び箱台上に逆さ竹槍先が立てられてましたので危なく、大人入りを目指す若者は、早くから必死の練習で真剣でした(高さ1.5~2m)。

隣の南太平洋バヌアツのバンジージャンプは、皆さんご承知の恐ろしいものです。時に外れたり切れたりしたことも絶無ではなかったでしょう。

台湾で撮られた写真に残る抜歯は、何か服用したにしろ兎も角痛かったでしょう。

これは、縄紋人もアメリカ新大陸にまでも拡がった特徴的なアジア東部沿岸の風習です。亡くなった人への服喪の意味で行われることもありました。

他方、日本の武家社会では、俵担ぎや広い面積の田植えなどもあったようですので、各地ではもはや残っていないいろいろな通過儀礼があったことでしょう。

東シベリアでは父親に連れられ、極寒地で狩猟を果たさねばなりません。

インディアンでは、4日間、炎天下で踊り続ける、また、胸に小枝をピアスして引きちぎって自由になる痛さのピアッシング儀礼があります。

メキシコでは、30mの塔に逆さ宙づりで13回も回される怖さと、降ろされてちゃんと降り立つことが求められます。

アマゾンでは、刺し針蟻の袋に10分間手を入れて刺されまくるのを耐え、出したその後も24時間は痛みが続く荒行を何回かします。

インカでは、丸太登りや吊り輪での向こう側への相手よりも早い渡りなどを仲間が支える揺れる柱で競争するアスレチックで勝利することです。

女子も種々の通過儀礼の風習がありました。

こういう痛みや恐怖を克服する精神的な強さや大人や戦士としての能力を求められるものを、種族として共通の心でやってこれていることが、何より環太平洋の先住の人々ーMPORの深い共通性と言えるでしょう。

(了)

列島史始まりの日本祖人は、結論的にやはり「西郷どん」系です。

隼人に関しては、日本人類学の大家である金関博士が既に比フィリピンのネグリトとの関連を推論しています(学者先生の金関博士は、証拠がはっきりしないとして、この説を断定的に言ってはいませんが)。

ポイントは、比・ネグリト、隼人、そして、各地に拡がっている海人族の関連です。

比ネグリトは、アフリカのピグミーなどと似ていますが、DNAは全く違ってあくまでモンゴロイドが日差しの強い島の環境でああいうようになったものです。

名前もいろいろに言われていますが、イタムとはインドネシア・マレー語のヒタムhitamで、「黒い」を意味します。

中国・宋の書物には、このネグリトは小柄で肌の黒い海胆ハイタン人として書かれていますが、ハイタン―hitamは繋がりが分かります。

そして、黒、このハイタン、日本のハヤト・ハヤヒト・ハイタン隼人は、無理なく繋がる訳で、ネグリトの特徴を一般に表現したものと、金関博士が薩摩で見た隼人の特徴もよく附合しています(上図右下)。

更には九州北部の筑紫地域は、「あた守る筑紫」と言われていますが、この「あた」とは、隼人を示し隼人から防衛する筑紫と解すべきものと博士は言っています。

他方、「あた」隼人は海人族で、上図のように茨城常陸や日本海側の沿岸にまで拡がり、何と岡山美作、長野信濃という内陸高地にまで拡がっています。

前回、インド洋から北海道に至るまで、人類史の流れを踏まえながら人の類似性を指摘しましたが、金関博士の説は十分納得し得るものです。

曙海の畔から始まった列島史から、比、台湾、五島や薩摩、沖縄の人たちが類似なのは当然です。

そして、北上して3万年前までに北海道にまで拡がっていますが、正に始まりの先住の人々と言って良いでしょう。

特徴は、海を越えて渡って来た海の民であって、隼人だけでなく微妙に呼び方を換えてますが、今もその痕跡の名が各地に残っていると博士は言っています。

曙海の畔からの始まりが「西郷どん」系であったというだけでなく、列島中に拡がっていた事、そしてその後に、暮らし振りの違うユーラシア内陸の狩猟族や稲作渡来族に込めやられた歴史も窺がえます。

ともかく、ユーラシア東部沿岸(今のベトナムなど)や比・ルソン島、曙海の畔の人々、皆同じような種族でしたでしょう。

繰り返しますが、金関博士は残った言葉などから想像も交え推論したとして、学者としては、慎重に断定を避けてます。(ご謙遜です)

しかし、「歴しニア」的には人類史の流れ、日本人とは、日本史の始まり、日本祖代と縄紋・弥生時代などを明きらかにしうる納得のビンゴ!です(はい、我田引水と言われるでしょうが)。

やはり、「西郷どん」系が、始まりのご先祖様なんです!(アイヌに追われたコロボックルにも光を)

明治維新150年、いや「西郷どん」が怒ります、ち・が・う・だ・ろ~、4万年前に想いを致せと!

(了)

 

 

最新の人類史(まとめ)

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年の初めに最新の人類史をまとめてお知らせいたします。

万年前の歴史は何処にもはっきり書き残されてかれているわけでは有りませんので、研究者が発見した遺物を種々の年代測定法で正式に鑑定したものの検討を経て、論文や専門科学誌などで紹介されます。

私たちに直接繋がる現生人類について、アフリカ北西部のモロッコで30万年前という発見が昨年有り、現生人類の真の出現時期、場所に関心が向かっています。

このこともあり、ユーラシアへの出アフリカの時期、場所も依然としてはっきりしません。

出アフリカ後につきましては、豪州北部における調査が続いていた遺跡で6.5万年前という報告がありました。

また依然として、そこへは家族が数十kmを舟か筏で渡ったものと考えられていますので、そういう点では世界最古です。

此の点で、インドネシア東部地域(Sundalandの東方海域)において、入り組んだ海岸線、島、サンゴ礁、マングローブでの暮らしが準備行動(Jared Diamond説)であったのだろうというのは納得です。

東チモールでは、世界最古の外洋魚の釣りなど海の民の暮らしが見つかっていますし。

日本へのルートは、①ユーラシア東側と②フィリッピン経由ルートの2つが考えられますが、九州へ渡海した状況から、前述のこともあり私は海の民のフィリッピンルートにも注目しています。

まあ此の大昔は、沿岸の民は似たような人たちであったのではと思いますが。

注目すべきは、アメリカへ渡って行ったと考えられる環太平洋ルートにおいて、日本列島においては、入りと出の時代がはっきりしている(約1万年間)ことが意義深いです。

また、日本列島への初渡来を考察すれば分かりますが、家族で曙海を越え、島へ渡って行っているノウハウを持った海の民です。

従って、渡来後の早い時期に伊豆の神津島で黒耀石を取るために外洋を少なくとも10数km舟で行き来し、南関東・伊豆地域で広く交換していたことが不思議でなく特筆され、世界で注目されています。

流れの激しい黒潮の内側本土寄りだったのが、ラッキーだったようです。

当サイトでは、始まりの日本祖人が、環太平洋をアメリカ大陸に移動・移住したというMPOR説を唱えていますが、当時の環境、祖人の状況の更なる分析や渡米に関わる遺物の(奇跡的な)発見などを期待しています。

戌年であり此処掘れワンワンで、考古学分野における貴重な品が発見されますよう切に祈っております。

(了)

 

 

 

4万年前頃、海を越えて日本列島に渡って来て北上し、3万年前には北海道東部にまで拡がったご先祖様である日本祖人は、どんな人だったのか?

結論的に言いますと、いよいよ始まる「西郷どん」に痕跡が残されていると思うのです。

下の写真の左下、アンダマン諸島の古い先住民ジャラワ族の人をご覧ください。

フィリッピンのアエタ族の子、台湾の高砂族の兵士、なども同類だと感じます。

始まり当時は曙海と北東ア平野という地域の状況であり、台湾と八重山の間は黒潮が走り距離も数十kmありましたので、遺跡からも北上して先に五島や北部九州に渡ったと考えています。

注目すべきは、縄紋語を残していたとみられる五島の人は、顔が(薩摩)隼人に似てると古い風土記に驚きを込めて記されています。

ところで、魏志倭人伝の邪馬台国は大いに研究されてますが、末尾に記されている侏儒(小柄な人)国、裸国については、注目も無く議論されてません。

南米だと言う人もいますが、最近、侏儒国は奄美大島だという説が出ています。

まあそれらが、南西諸島、小笠原・マリアナ、比、インドネシアにしろ、とも角、全く空想の意味無い話ではないことが大変重要です。

人類史の展開ルートで、我が国の周辺に小柄な人、裸で暮らす人がおり交流があったことが史実として信じ得るものだからです。

敢えて言えば、同族の古い遠い親族です。

此の点で、明治期に議論になった小柄なコロボックルは、改めて光が当てられるべきでしょう。

コロボックルがアイヌに追われて逃げて行ったという千島を、明治期に学者が訪れたがアイヌしかおらなかったと言うことで簡単に否定されてしまいました。

当時は万年に及ぶアフリカからの人類の移動・移住の展開などは想像すらできませんでした。

江戸期の話を明治期には消えて確認できなくなっていたことなど十分有り得ることで、居なかったからかって存在したことは無いとすることは不適当です。

更に北へ逃げて行ったか、滅亡してしまったのか、いろいろあり得ます。

伝承や資料もありますから、小柄な海の民という先住民が居たのだろうと考えて、有り得ることですし矛盾はありません。

これらの事から、肌の色は薄まった茶褐色で小柄な目元涼しい海の民の人たちに大陸から進入した狩猟族が加わりました。

縄紋時代と呼ばれるまでの2万数千年間、日本史の約7割くらいの期間、閉ざされがちな島々での熟成された暮らしぶりが、列島文化の始まりです。

この日本祖代の長い期間の原点に思いを致すことなく、日本史を語る事は出来ないと考えています。

そして既に述べました通り、3万年前からも北上は続き、やがてアメリカ新大陸に至ったものと考えています。

日本祖代・祖人は、世界史上も重要なのだと「歴しニア」は考えているのです。

4万年の、今に繋がる受け継がれた歴史を科学的に語れるのは、世界でも日本人くらいではないでしょうか。 誇るべき〇千年の歴史?可愛いもんです。

(了)

これまで4万年前に曙海の畔を九州に渡って来た日本列島人の始まりの頃、即ち日本祖代とその人々である祖人について探ってきました。

そして、九州から北上した祖人は、3万年前頃には北海道に達し、止まることなく北上を続けてアメリカ新大陸に沿岸から入って行ったであろう初渡米についてお伝えしました。

さて、記録に残っていることや分析した当時の時代史を重ねてみますと、始まりの祖人たちが話していた日本祖語の痕跡があるように思われます。

「初めに言葉ありき」、あの聖書Bibleに書かれたことですが、実は聖書の生まれる遥か昔の日本祖代語を考えますと大変深い意味があります。

下写真のインド南部カルナタカ州のアラプール村の自宅近くでハヌマンラングールの群れに餌を与える2歳のサマルト・バンガリ君が日頃、野生のサルと遊ぶ様子が評判になっているそうです。

2歳男児とサルの群れの友情が話題、毎日欠かさず遊びに インド 2歳男児とサルの群れの友情が話題、毎日欠かさず遊びに インド

サルと遊ぶ2歳の子(写真:AFP通信から)

私には、これは興味深~い意味がありますね。

まだ、言葉をしゃべれないサマルト君は、動作発声コミュニケーションのレベルの人猿交流というべきことで遊んでいます。

米MIT大学のチョムスキー教授によれば、実は言葉は、コミュニケーションのためよりも頭の中の思考のために発達したそうです。

そして、未熟な2歳の子と同じく言葉・思考の無い動物達と、人は4-5歳になるともはや完全に違くなってるそうです。

南洋のパプアニューギニア部族は石器時代のような暮らしと言われますが、その赤ちゃんもロンドンに連れてきて育てれば、やがて普通に学校に行って英人になる素質があるんだそうです。

他方、DNAが人間と極めて近しいチンパンジーは、言葉を理解し、操り、思考することが全くムリな事が幾多の実験で明らかになっています。

正に人と動物の違いは、初めに言葉・思考ありきの分野です。

(成長していく赤ちゃんともう1回3年間くらい暮らしてみたいですね、どのように言葉と思考が育っていくのかという事を観たいものです。)

生まれた赤子は、1年以内に母親の音声システムの抑揚で泣くそうで、フランスやドイツの子と日本の子は微妙に泣き声が違うそうですよ。

これまで地球に500億種の生物が誕生しているそうですが、人のみが言語を話し思考するという奇跡だと言われていますが、AI時代でもあり解明が進んでいってるようです。

さて、人が現在の脳容量になったのは10万年前頃で、8万年前頃には造形美術や身体を装飾することなどが南ア・ブロンボス洞窟で見られ、それらは他から学ぼうとする事で進歩した、言葉の脳力と関係深いと考えられています。

ところで、人は言葉を獲得し今まで何百種もの違った言葉がありますが、700万年という人類史では最近の事です。

従って、他の星の宇宙人(いれば)からすると、地球人は皆同種の言葉をしゃべっていると感ずるだろうと考えられています。

言葉能力を獲得して出アフリカを果たし、インドネシア、スマトラ島で発見されていた歯が7.3万~6.3万年前ということで、北上して日本列島にやって来た事になります。

爆発的にか徐々にか意見が分かれてますが、言語力や認知思考力が5万年前頃までには素質として今のような高いレベルに達していたようです。

この能力によって、Sundaland地域からかなりの家族が舟か筏で数十kmの海を渡って豪州に達していたと考えられており、北上して日本列島に達し、米新大陸にまで移動・移住していっています(MPOR説)。

日本列島九州への渡来が4万年前頃とSundaland時代からかなりの時間が経っていますのは、緯度を北上した寒さに慣れる必要があったからではと考えます。

そして、九州渡来後に注目されますのは、約1万年間で同じような言葉を話す祖人が水平拡散で北海道にまで、垂直拡散で高原の長野野尻湖にまで拡がっていたとみられる事が遺跡遺物から考えられ、注目すべき大きな特色です。

その後も列島には北から西から人が入ってきていますが、大陸の人はもとより、同じ言葉を話す出て行った人たちが再び入って来たという側面があることも考慮する必要があります。

そして、次の大きな人の渡来流入まで更に1万年間にわたり熟成しましたが、この事は土台として注目され、私はこの始まりの約2年間の祖人語が、祖層・第1層と考えています。

次いで氷河期最寒冷期となり、2万年前頃に北から西から大陸の狩猟民族の人々が入って来て新しい文化と言葉も持ち込まれ、大きな変化がありました。

それまでの祖層に交じって混淆あるいは混在のまだら模様の状況で、言葉の第2層と言うべきものになっていったと考えます。

この異質な言葉が混じった第2層がいわば縄紋語であり、地域性があったと考えられますが、そしてこの2層に人類がアフリカを出た頃の古い基層言語が残っていることが極めて重要です。

即ち、海の民系の言語に内陸狩猟族系の言語が流入しましたが、出アフリカ古層A型がしっかり残っていました。

古代のアイヌの言葉と北西九州の言葉に共通した語が幾つか痕跡として発見されていますが、アイヌが九州に居たということでなく、それらの語は、かって古い時代に列島各地で幅広く共通に話されていたものであると考えられています。

その後、万年続いた縄紋時代が終わって弥生稲作系と言われる人々と文化が西から入って(3,000年前頃)大きな変化が列島に生じました。

この変化の第3層は、列島の南北端に第2層・縄紋語を話す人々を残し混合された、その後もずっとこの基本的な構造を留めた、言わば日本語の基層だと考えています。

(注:赤い点線矢印が、2万年前頃の北、西からの新たな渡来です)

①九州から広まった祖人によって列島中で話された第1祖層・祖語、②北と西からの新たな狩猟族流入による変化の第2層・縄紋語、③大陸から渡来した弥生稲作系を主に形作られた第3層・基層語、という変化を我が国の始まりの頃の言葉の歴史として考えています。

そして、基層(第3層)に残された我が国の南・北端の古代の言葉の痕跡からその変化の流れについて、古い日本祖語にまで思いを馳せられることが何と言っても特徴でしょう。

そして、それが人類史の古い出アフリカ古層A型の類型であることが特筆されます。

日本語が、簡単にぴったりあの言葉系であると言えない事こそが、大変古い混じり合いの言葉、そしてご先祖様だということになります。

最新の研究により、米大陸太平洋沿岸を含めて、環太平洋語族と括られて認識されるようになったことが、何よりも現生人類の環太平洋時計回りの移動移住MPOR説を裏付けるものと考えています。

今年は犬年で、日本でワンワン、アメリカでバウワウ、ロシヤでガフガフ、インドネシアでゴンゴン、・・・ですが、聴く人の耳の差でしょう。

でも、2度繰り返す畳語であるのは共通です。

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(了)

 

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