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さて、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話でしたが、インド洋を越えたパンカル半島の玄関口スマトラ島に至れば、あとはジャワ、ボルネオ、スラウェシ等の域内の宝物の入手は困難なことではありません。

スマトラ島北部の町バンダ・アチェは、暑い、敬虔なイスラム教徒の地、夕日が最後に沈む美しさなどで知られています。2004年の大津波で世界に知られる所となりました。

降り立った空港の建物がモスク風なことが、何処よりも最初にイスラム化した誇りを良く示しています。

問題は、そんなイスラム教徒の町の空港名に何故堂々とイスカンダル、ギリシャ・アレキサンダー大王の名が掲げられているかという不思議さです。

町では、市長選挙の立候補者の大看板を見てもIskandarという名の人で、実はこのアチェのみならず、スマトラ島に多くアレキサンダーとの関係が今も残っています。西ジャワのスンダ人の間にもあるそうですので広域に亘っています。

そして、どうしてそうなのかについていろいろな人に聞いても説明が返ってきません。いつ頃からのことなのかも分かりません。

歴史的には、アレキサンダー大王には息子はいなかったようなので、3番目の息子が東南アジアを任されて統治したという言い伝えは否定されています。

アレキサンダー大王に征服された貿易の民フェニキア人が、ギリシャ人と共に当地に来たのではないかという私案は結構賛同されますし、逆に当地からギリシャ等に行き結婚して系統に入ったことかもしれないという案も出ました。

フェニキア人が南印まで来たことは言及がありますが、パンカル地域となるとはっきりしません。金の岬、金の島スマトラに関する話を考えれば来ていた筈ですが。

そして、東スマトラのJambiなどではギリシャの大王宮のレプリカとしてのKandis王朝のDhamna王宮遺跡があり、近年の調査で境界塔柱や宮殿入口の洞窟などが発見されていますので、この関係は半端なものでは有りません。

他方、フェニキアがユダヤ・ソロモンSolomon王との関連で当地域に来たと思われるのが宝の地Ophirであり、マレーシアにはその名の山があり、西スマトラのTalamau山も以前はOphir山と言われていたそうです。

最近、豪で発見されたSarana遺跡、正にその名のSolomon諸島やスペイン人はフィリッピンかもしれないとして期待を持って足を伸ばしていますが、フェニキアが広域にわたる貿易等を展開していたとみられていることが窺がわれます。

その貿易活動の広域さから、アルファベットを生み出し広めたことも理解できます。

それでは彼らがどういう人たちかですが、近年のDNA調査により12,000年前頃以来、地中海東端で海に馴染んで生きてきた人たちのようです。

但し、イラク・シュメール語やエチオピア・ケーズ語とともに他の多数派アラブ・セム語とは異なったものがあるようです。この点で史家ヘロドトスが、フェニキア人は元々はエリトリアに居て移ってきた者たちといった話は興味深いです。

エリトリア地域であれば、紅海、エリトリア海、インド洋に親しんでおり、更にその前は東方から移ってきた民族であることも窺がわせますので、その後の歴史において東方における独壇場とも言える特異な活躍も理解できます。

フェニキアは、アルファベットを生み出したことに留まらない、先史における海路の東西交流の鍵を握る存在と思われ、「ずる賢い。」と評されたことが何よりもよくそのことを示している先史上の”補助線”集団だと思います。

フェニキアの東方における活動がさらに解明されれば、パンカル地域の様子ももっと明きらかになるだろうと期待されます。

(了)

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さて、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話です。

古来、地中海から紅海に抜ける海路があったとみられており、現在でもスエズ運河はパナマ運河とは異なり地中海と紅海の水位差のない海路です。今は、大型船が通れるように川幅、水深も拡張され船団が離合できるように施設も整っています。

アレキサンダー大王のころの以前から地域では、東方に宝の島があると言われ、金、銀、宝石や香り高く、『スパイスの王様』と呼ばれるシナモン、籐などがもたらされ、そこには多様な動物がおり、象も知られていました。

これらが、エジプト最盛期以来の紅海を経る航海貿易を独占していたフェニキア主導で行われていたものと考えられます。

昔の世界観は、大洋に囲まれて欧州、アジア、アフリカという3大陸地が存在しているというものでしたので、アレキサンダー大王は陸から東進しインドに進攻して、コロンブスは西へ航海して、いずれも「遠いインドの東」を目指しました。

地中海

 

ギリシアにおける遠い東の宝の島Taprobane―Taprobanaなどという名は、アレキサンダー大王の東方遠征におけるインドからの話であり、それはドラヴィダ族が伝えていた祖先の地あるいは地域の川の名とも言われています。

作成された下図は、プトレミーが聞いた話から中世になって描かれたものですが、多くの都市、川、部族、港など詳細にわたり、当初はそれはセイロン(スリランカ)だろうといわれてました。が、スリランカの周りにはプトレミーの描く沢山の小島は有りません。

昔からずっと話題にはなっていますが、それぞれが聞いた伝聞話なため、島の大きさについても全く異なっていて大きさはイギリスと同じくらいとも言われましたので、スリランカでは小さすぎます。その後、16世紀初頭のポルトガルが進出するころには、マラッカ海峡の南の現インドネシアのスマトラ島がそれとして描かれているといった具合です。

そういう中でスマトラで注目されるのが独自の伝統社会(母系、牛神聖視、出稼ぎ活躍等)を守っているミナンカボーと呼ばれる人たちと島最初(起元前)と言われるカンディス王国の宮殿遺跡です。

いずれも考古学的にはマレー半島から5-4,000年前頃にスマトラ半島に来た人たちで西側(中心はパダン)にミナンカボー、東側(中心はジャムビ)にカンディス王国、境界にはケリンチ山(3,805m)が聳えるという訳です。

谷一つ越えると風俗習慣が違うといわれるこの地に在って、マラッカ海峡を挟む両側の人々の今に残る共通性はマレー王がスマトラに王宮を設けた時代があったことを考慮しても驚くべきことです。

海峡が陸地であった万年にわたるパンカル半島の長い歴史の積み重ねを感じさせます。

両者が注目されるのは、アケドニア・ギリシアのアレキサンダー大王から東南アジアを託された3男Diraja王の末裔だと称し、特にカンディス王国の宮殿Dhamnaは、大王のいやアトランティスのレプリカだと言われている(Ahmad Samantho)ことです。

下図の硬貨のアレキサンダー大王の耳をご覧ください。ミナンカボーの人々が大切にするシンボルの神聖な牛になっています。

アレクサンドロス大王のコイン

アレクサンドロスの帝国(ネット 世界史講義録から)

歴史的に大王には息子たちはいなかったし唐突な話ということで注目されていませんが、ミナンカボーは、独立のNo.2ハッタ副大統領等の要人を今も輩出しています。

伝えられている話ではジャムビのDhamna宮殿は中国遠征軍(Sintong王)に滅ぼされましたが、近年の発掘(予算の関係で不十分)により、外堀・垣・入口・境界塔柱石などと思われる痕跡が確認されています。

私がこれらの言い伝えや遺跡に注目しますのは、アレキサンダー大王の支配下に入ったフェニキア(BC330年頃)が、エジプトと共にPunt遠征をした金、宝石、木材、香辛料等の宝の島スマトラに、大王子孫を語るギリシア勢力の者たちとも共に来て途切れることなく貿易を行っていた痕跡、証左と考えるからです。

インド洋を越えたパンカル半島の玄関口スマトラに至れば、あとはジャワ、ボルネオ、スラウェシ等の域内の宝物の入手は困難なことではありません。

次回は、そのフェニキアが更に足を伸ばして広域の貿易等を展開した話といたします。(小旅行で少し間が開きますが。)

以上

 

 

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(雨でネットが不調でしたのと小旅していましたので間があきました。)

さて前回は、フェニキアの地中海での活躍と概史をお伝えしました。

それに比し東方での活動は十分には解明されていません。一つには、船、修船所、港、小租界といったものが、内陸勢力の強い影響の中で数千年という時を経て残り難いことがあり、また、万年では海水面の上昇による消滅もあります。

更に、やはり遺跡発掘とそれを基礎とする歴史認識を主導してきた欧州勢の関心が、地中海地域に向かっていたことは否めません。

しかし、フェニキアのエジプト・ファラオとの関係やユダヤ・Solomon王との関係などは、古い時代からの東方との外洋貿易をはっきり示していますので、まずは紅海、そしてインド洋西北のあまり馴染のないアラビア海が注目されます。

当然、紅海地域・アデン湾は最初にフェニキア貿易が行われましたが, やがてモンスーン(南西、北東の季節風)を利用するインド亜大陸への航海貿易に発展し、文化・文明を伴う貿易ということでは、ペルシャ湾のイラク・メソポタミア、北方からの人の流入で知られるイラン・ペルシャそしてインド亜大陸地域となります。

特に、インド亜大陸地域では、近年新たな遺跡の発掘(Mehrgarh、グジュラート地域など)による発見が多く行われ、いわゆるインダス川流域のモヘンジョ・ダロに代表されるインダス文明という認識ではおさまらない広域にわたる文明の存在が明らかになってきています。

(第1図)

(現代の国名図)

また、これまで紹介しましたエジプト・ファラオ及びユダヤ・Solomon王に加え、ギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobaneの話もあり、古くはこの地域のセイロン(現スリランカ)だろうとして盛り上がりました。

紅海・アデン湾から外洋に出て陸地沿いに航行した場合、まずはペルシャ帝国を築き上げたイラン地域となります。

氷河期の最終氷期LGMが終わった1万数千年前頃から人々が定着したとみられ、海浜交流と共に上図の3方向からの人の流入があり、遺跡発掘の成果から一貫して断絶なく着実な遺物の進化が見られます。

8千年前頃には、既にかなり高度な農耕(麦)社会が形成されて都市の原型(練土―煉瓦、漆喰、図柄ある彩文土器等)も見られます。

西のイラク・メソポタミアの影響ある遺跡や東部では近年、4千年前頃の都市文化遺跡も発見されており、独自色あるエラム人による文化(5千年前頃から)がこの地域にはありました。

しかし、産出する物品やペルシャ帝国においても陸上行動力、今に残る高原都市などの方が目立つことから、「宝物の地」と比定したり東方への外洋航海貿易を主導したとは考え難いです。

次に、これまでの歴史認識では、メソポタミアからインダスへ、エジプトへというものですが、近年の特にインド亜大陸地域での発掘により、検討を迫られているように思われます。

特にフェニキアに注目すますと、南西及び北東の季節風モンスーンを利用する航海の容易性を考えれば早い時期からインド亜大陸との貿易が始まり、パンカル地域へも発展したことが考えられます。

メールガルMehrgarh遺跡は、モヘンジョ・ダロよりずっと古い9千年前に遡るこの地域で生まれた文化を示していることが、多くの遺物を発掘したフランスチームによって明らかになりました。

更に、時を経たその青銅器時代の状況はずっと南の第1図のInamgaon地域の遺跡の方が直系であるという驚きの研究成果です。

そもそも9千年前にメールガル以外にもインド亜大陸の河川・沿岸部に広く同様の人たちが定住して居たと考えられ、やがて発展して青銅器時代を迎えたのか、それともInamgaon地域に青銅器時代以前の定住遺跡が無いというならば、古メールガルの人たちがこの遠距離を移住していたとなりやはり航海に馴染んでいた人たちでしょう。

また、インダス川の東のサラスヴァタ川沿いは、涸れ川跡の衛星写真分析から遺跡の存在が浮かび上がり発掘したところ大変多くの遺跡が確認され、あの古代インドの聖典である リグ・ヴェーダの見直しともなっています。

他方、その南方グジュラート地域では海に近いロータル遺跡(インダス文明最盛期4600年~3800年頃に機能していた城塞・市街地)に加え、数千年前とみられる海底遺跡が発見され海浜地域の発展を実証する点が注目されます。

(第2図)

 

ロータル – Wikipedia

これらは、インダス川沿いの文明として括られるものでは無く、南インドの貴重な黒胡椒、金などの交易を基礎とする文明を浮かび上がらせるものです。

インドと括ってしまうことも適切でなく、新しい現主流派の北インドとは異なるより古い先史時代の南インドのドラヴィダ族タミルの独自性、重要性を示しており、西方ペルシア湾のメソポタミアとの貿易はもとよりフェニキアとの貿易をも窺がわせるに十分な魅力と遺跡状況です。

更に、まだまだ沿海に海底遺跡があるとも言われていますが、南北インドの政治的な問題を克服して研究が進捗することを期待しています。ドラヴィダ・タミルは、世界最古の言語を話し近縁が見つからない日本語と最も近いとも言われておりその先史は特に我々にとって注目されます。

以上、従来は遺跡・文明に関しては発見容易な陸上勢力のものが主でその興亡が注目され史観が形成されてきましたが、今回述べましたように逐次発掘が進んで明らかになってきた河川沿いや沿海の航海貿易の勢力の動きにも注目する必要があるでしょう。

次に、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話ですが、次回、お伝えすることといたします。

因みに欧米では、それはセイロン(スリランカ)だろうといわれてますが、スリランカの周りにはプトレミーの描く沢山の小島は有りません!

 

 

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