環太平洋種族の成人通過儀礼

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成人の日は、悪質な着付け業者に騙されたものの、善意の人々や自治体によって何とか泣きかけた多くの娘さんが式を祝われたことが話題になりました。

実はこの成人行事ですが、環太平洋地域における大昔からの通過儀礼としての共通性が注目されます。

その特色は、抜歯や胸ピアスなど身体を傷つけることや時には死傷の危険性のある行動が求められることです。

人類始まりのアフリカの一部にも見られますが、環太平洋地域の種族の際立った特徴であり、欧米白人やモンゴル、ツングースなどの内陸部には見られないもので、人類の環太平洋移動・移住MPOR説の歴しニアとしては注目しています。

上図左下のインドネシア・スマトラ沖のニアス島は、戦いの陣羽織、裃が余りに江戸侍ものに似てますので、日本のチャンバラテレビを観ると、あっ、ニアスだ!となります。

また、跳び箱がオヤジには懐かしいですが、大人になるために石の跳び箱を手を突かずに空中を飛び越える戦士の能力を求められます。

かっては、跳び箱台上に逆さ竹槍先が立てられてましたので危なく、大人入りを目指す若者は、早くから必死の練習で真剣でした(高さ1.5~2m)。

隣の南太平洋バヌアツのバンジージャンプは、皆さんご承知の恐ろしいものです。時に外れたり切れたりしたことも絶無ではなかったでしょう。

台湾で撮られた写真に残る抜歯は、何か服用したにしろ兎も角痛かったでしょう。

これは、縄紋人もアメリカ新大陸にまでも拡がった特徴的なアジア東部沿岸の風習です。亡くなった人への服喪の意味で行われることもありました。

他方、日本の武家社会では、俵担ぎや広い面積の田植えなどもあったようですので、各地ではもはや残っていないいろいろな通過儀礼があったことでしょう。

東シベリアでは父親に連れられ、極寒地で狩猟を果たさねばなりません。

インディアンでは、4日間、炎天下で踊り続ける、また、胸に小枝をピアスして引きちぎって自由になる痛さのピアッシング儀礼があります。

メキシコでは、30mの塔に逆さ宙づりで13回も回される怖さと、降ろされてちゃんと降り立つことが求められます。

アマゾンでは、刺し針蟻の袋に10分間手を入れて刺されまくるのを耐え、出したその後も24時間は痛みが続く荒行を何回かします。

インカでは、丸太登りや吊り輪での向こう側への相手よりも早い渡りなどを仲間が支える揺れる柱で競争するアスレチックで勝利することです。

女子も種々の通過儀礼の風習がありました。

こういう痛みや恐怖を克服する精神的な強さや大人や戦士としての能力を求められるものを、種族として共通の心でやってこれていることが、何より環太平洋の先住の人々ーMPORの深い共通性と言えるでしょう。

(了)

列島史始まりの日本祖人は、結論的にやはり「西郷どん」系です。

隼人に関しては、日本人類学の大家である金関博士が既に比フィリピンのネグリトとの関連を推論しています(学者先生の金関博士は、証拠がはっきりしないとして、この説を断定的に言ってはいませんが)。

ポイントは、比・ネグリト、隼人、そして、各地に拡がっている海人族の関連です。

比ネグリトは、アフリカのピグミーなどと似ていますが、DNAは全く違ってあくまでモンゴロイドが日差しの強い島の環境でああいうようになったものです。

名前もいろいろに言われていますが、イタムとはインドネシア・マレー語のヒタムhitamで、「黒い」を意味します。

中国・宋の書物には、このネグリトは小柄で肌の黒い海胆ハイタン人として書かれていますが、ハイタン―hitamは繋がりが分かります。

そして、黒、このハイタン、日本のハヤト・ハヤヒト・ハイタン隼人は、無理なく繋がる訳で、ネグリトの特徴を一般に表現したものと、金関博士が薩摩で見た隼人の特徴もよく附合しています(上図右下)。

更には九州北部の筑紫地域は、「あた守る筑紫」と言われていますが、この「あた」とは、隼人を示し隼人から防衛する筑紫と解すべきものと博士は言っています。

他方、「あた」隼人は海人族で、上図のように茨城常陸や日本海側の沿岸にまで拡がり、何と岡山美作、長野信濃という内陸高地にまで拡がっています。

前回、インド洋から北海道に至るまで、人類史の流れを踏まえながら人の類似性を指摘しましたが、金関博士の説は十分納得し得るものです。

曙海の畔から始まった列島史から、比、台湾、五島や薩摩、沖縄の人たちが類似なのは当然です。

そして、北上して3万年前までに北海道にまで拡がっていますが、正に始まりの先住の人々と言って良いでしょう。

特徴は、海を越えて渡って来た海の民であって、隼人だけでなく微妙に呼び方を換えてますが、今もその痕跡の名が各地に残っていると博士は言っています。

曙海の畔からの始まりが「西郷どん」系であったというだけでなく、列島中に拡がっていた事、そしてその後に、暮らし振りの違うユーラシア内陸の狩猟族や稲作渡来族に込めやられた歴史も窺がえます。

ともかく、ユーラシア東部沿岸(今のベトナムなど)や比・ルソン島、曙海の畔の人々、皆同じような種族でしたでしょう。

繰り返しますが、金関博士は残った言葉などから想像も交え推論したとして、学者としては、慎重に断定を避けてます。(ご謙遜です)

しかし、「歴しニア」的には人類史の流れ、日本人とは、日本史の始まり、日本祖代と縄紋・弥生時代などを明きらかにしうる納得のビンゴ!です(はい、我田引水と言われるでしょうが)。

やはり、「西郷どん」系が、始まりのご先祖様なんです!(アイヌに追われたコロボックルにも光を)

明治維新150年、いや「西郷どん」が怒ります、ち・が・う・だ・ろ~、4万年前に想いを致せと!

(了)

 

 

最新の人類史(まとめ)

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年の初めに最新の人類史をまとめてお知らせいたします。

万年前の歴史は何処にもはっきり書き残されてかれているわけでは有りませんので、研究者が発見した遺物を種々の年代測定法で正式に鑑定したものの検討を経て、論文や専門科学誌などで紹介されます。

私たちに直接繋がる現生人類について、アフリカ北西部のモロッコで30万年前という発見が昨年有り、現生人類の真の出現時期、場所に関心が向かっています。

このこともあり、ユーラシアへの出アフリカの時期、場所も依然としてはっきりしません。

出アフリカ後につきましては、豪州北部における調査が続いていた遺跡で6.5万年前という報告がありました。

また依然として、そこへは家族が数十kmを舟か筏で渡ったものと考えられていますので、そういう点では世界最古です。

此の点で、インドネシア東部地域(Sundalandの東方海域)において、入り組んだ海岸線、島、サンゴ礁、マングローブでの暮らしが準備行動(Jared Diamond説)であったのだろうというのは納得です。

東チモールでは、世界最古の外洋魚の釣りなど海の民の暮らしが見つかっていますし。

日本へのルートは、①ユーラシア東側と②フィリッピン経由ルートの2つが考えられますが、九州へ渡海した状況から、前述のこともあり私は海の民のフィリッピンルートにも注目しています。

まあ此の大昔は、沿岸の民は似たような人たちであったのではと思いますが。

注目すべきは、アメリカへ渡って行ったと考えられる環太平洋ルートにおいて、日本列島においては、入りと出の時代がはっきりしている(約1万年間)ことが意義深いです。

また、日本列島への初渡来を考察すれば分かりますが、家族で曙海を越え、島へ渡って行っているノウハウを持った海の民です。

従って、渡来後の早い時期に伊豆の神津島で黒耀石を取るために外洋を少なくとも10数km舟で行き来し、南関東・伊豆地域で広く交換していたことが不思議でなく特筆され、世界で注目されています。

流れの激しい黒潮の内側本土寄りだったのが、ラッキーだったようです。

当サイトでは、始まりの日本祖人が、環太平洋をアメリカ大陸に移動・移住したというMPOR説を唱えていますが、当時の環境、祖人の状況の更なる分析や渡米に関わる遺物の(奇跡的な)発見などを期待しています。

戌年であり此処掘れワンワンで、考古学分野における貴重な品が発見されますよう切に祈っております。

(了)

 

 

 

4万年前頃、海を越えて日本列島に渡って来て北上し、3万年前には北海道東部にまで拡がったご先祖様である日本祖人は、どんな人だったのか?

結論的に言いますと、いよいよ始まる「西郷どん」に痕跡が残されていると思うのです。

下の写真の左下、アンダマン諸島の古い先住民ジャラワ族の人をご覧ください。

フィリッピンのアエタ族の子、台湾の高砂族の兵士、なども同類だと感じます。

始まり当時は曙海と北東ア平野という地域の状況であり、台湾と八重山の間は黒潮が走り距離も数十kmありましたので、遺跡からも北上して先に五島や北部九州に渡ったと考えています。

注目すべきは、縄紋語を残していたとみられる五島の人は、顔が(薩摩)隼人に似てると古い風土記に驚きを込めて記されています。

ところで、魏志倭人伝の邪馬台国は大いに研究されてますが、末尾に記されている侏儒(小柄な人)国、裸国については、注目も無く議論されてません。

南米だと言う人もいますが、最近、侏儒国は奄美大島だという説が出ています。

まあそれらが、南西諸島、小笠原・マリアナ、比、インドネシアにしろ、とも角、全く空想の意味無い話ではないことが大変重要です。

人類史の展開ルートで、我が国の周辺に小柄な人、裸で暮らす人がおり交流があったことが史実として信じ得るものだからです。

敢えて言えば、同族の古い遠い親族です。

此の点で、明治期に議論になった小柄なコロボックルは、改めて光が当てられるべきでしょう。

コロボックルがアイヌに追われて逃げて行ったという千島を、明治期に学者が訪れたがアイヌしかおらなかったと言うことで簡単に否定されてしまいました。

当時は万年に及ぶアフリカからの人類の移動・移住の展開などは想像すらできませんでした。

江戸期の話を明治期には消えて確認できなくなっていたことなど十分有り得ることで、居なかったからかって存在したことは無いとすることは不適当です。

更に北へ逃げて行ったか、滅亡してしまったのか、いろいろあり得ます。

伝承や資料もありますから、小柄な海の民という先住民が居たのだろうと考えて、有り得ることですし矛盾はありません。

これらの事から、肌の色は薄まった茶褐色で小柄な目元涼しい海の民の人たちに大陸から進入した狩猟族が加わりました。

縄紋時代と呼ばれるまでの2万数千年間、日本史の約7割くらいの期間、閉ざされがちな島々での熟成された暮らしぶりが、列島文化の始まりです。

この日本祖代の長い期間の原点に思いを致すことなく、日本史を語る事は出来ないと考えています。

そして既に述べました通り、3万年前からも北上は続き、やがてアメリカ新大陸に至ったものと考えています。

日本祖代・祖人は、世界史上も重要なのだと「歴しニア」は考えているのです。

4万年の、今に繋がる受け継がれた歴史を科学的に語れるのは、世界でも日本人くらいではないでしょうか。 誇るべき〇千年の歴史?可愛いもんです。

(了)

これまで4万年前に曙海の畔を九州に渡って来た日本列島人の始まりの頃、即ち日本祖代とその人々である祖人について探ってきました。

そして、九州から北上した祖人は、3万年前頃には北海道に達し、止まることなく北上を続けてアメリカ新大陸に沿岸から入って行ったであろう初渡米についてお伝えしました。

さて、記録に残っていることや分析した当時の時代史を重ねてみますと、始まりの祖人たちが話していた日本祖語の痕跡があるように思われます。

「初めに言葉ありき」、あの聖書Bibleに書かれたことですが、実は聖書の生まれる遥か昔の日本祖代語を考えますと大変深い意味があります。

下写真のインド南部カルナタカ州のアラプール村の自宅近くでハヌマンラングールの群れに餌を与える2歳のサマルト・バンガリ君が日頃、野生のサルと遊ぶ様子が評判になっているそうです。

2歳男児とサルの群れの友情が話題、毎日欠かさず遊びに インド 2歳男児とサルの群れの友情が話題、毎日欠かさず遊びに インド

サルと遊ぶ2歳の子(写真:AFP通信から)

私には、これは興味深~い意味がありますね。

まだ、言葉をしゃべれないサマルト君は、動作発声コミュニケーションのレベルの人猿交流というべきことで遊んでいます。

米MIT大学のチョムスキー教授によれば、実は言葉は、コミュニケーションのためよりも頭の中の思考のために発達したそうです。

そして、未熟な2歳の子と同じく言葉・思考の無い動物達と、人は4-5歳になるともはや完全に違くなってるそうです。

南洋のパプアニューギニア部族は石器時代のような暮らしと言われますが、その赤ちゃんもロンドンに連れてきて育てれば、やがて普通に学校に行って英人になる素質があるんだそうです。

他方、DNAが人間と極めて近しいチンパンジーは、言葉を理解し、操り、思考することが全くムリな事が幾多の実験で明らかになっています。

正に人と動物の違いは、初めに言葉・思考ありきの分野です。

(成長していく赤ちゃんともう1回3年間くらい暮らしてみたいですね、どのように言葉と思考が育っていくのかという事を観たいものです。)

生まれた赤子は、1年以内に母親の音声システムの抑揚で泣くそうで、フランスやドイツの子と日本の子は微妙に泣き声が違うそうですよ。

これまで地球に500億種の生物が誕生しているそうですが、人のみが言語を話し思考するという奇跡だと言われていますが、AI時代でもあり解明が進んでいってるようです。

さて、人が現在の脳容量になったのは10万年前頃で、8万年前頃には造形美術や身体を装飾することなどが南ア・ブロンボス洞窟で見られ、それらは他から学ぼうとする事で進歩した、言葉の脳力と関係深いと考えられています。

ところで、人は言葉を獲得し今まで何百種もの違った言葉がありますが、700万年という人類史では最近の事です。

従って、他の星の宇宙人(いれば)からすると、地球人は皆同種の言葉をしゃべっていると感ずるだろうと考えられています。

言葉能力を獲得して出アフリカを果たし、インドネシア、スマトラ島で発見されていた歯が7.3万~6.3万年前ということで、北上して日本列島にやって来た事になります。

爆発的にか徐々にか意見が分かれてますが、言語力や認知思考力が5万年前頃までには素質として今のような高いレベルに達していたようです。

この能力によって、Sundaland地域からかなりの家族が舟か筏で数十kmの海を渡って豪州に達していたと考えられており、北上して日本列島に達し、米新大陸にまで移動・移住していっています(MPOR説)。

日本列島九州への渡来が4万年前頃とSundaland時代からかなりの時間が経っていますのは、緯度を北上した寒さに慣れる必要があったからではと考えます。

そして、九州渡来後に注目されますのは、約1万年間で同じような言葉を話す祖人が水平拡散で北海道にまで、垂直拡散で高原の長野野尻湖にまで拡がっていたとみられる事が遺跡遺物から考えられ、注目すべき大きな特色です。

その後も列島には北から西から人が入ってきていますが、大陸の人はもとより、同じ言葉を話す出て行った人たちが再び入って来たという側面があることも考慮する必要があります。

そして、次の大きな人の渡来流入まで更に1万年間にわたり熟成しましたが、この事は土台として注目され、私はこの始まりの約2年間の祖人語が、祖層・第1層と考えています。

次いで氷河期最寒冷期となり、2万年前頃に北から西から大陸の狩猟民族の人々が入って来て新しい文化と言葉も持ち込まれ、大きな変化がありました。

それまでの祖層に交じって混淆あるいは混在のまだら模様の状況で、言葉の第2層と言うべきものになっていったと考えます。

この異質な言葉が混じった第2層がいわば縄紋語であり、地域性があったと考えられますが、そしてこの2層に人類がアフリカを出た頃の古い基層言語が残っていることが極めて重要です。

即ち、海の民系の言語に内陸狩猟族系の言語が流入しましたが、出アフリカ古層A型がしっかり残っていました。

古代のアイヌの言葉と北西九州の言葉に共通した語が幾つか痕跡として発見されていますが、アイヌが九州に居たということでなく、それらの語は、かって古い時代に列島各地で幅広く共通に話されていたものであると考えられています。

その後、万年続いた縄紋時代が終わって弥生稲作系と言われる人々と文化が西から入って(3,000年前頃)大きな変化が列島に生じました。

この変化の第3層は、列島の南北端に第2層・縄紋語を話す人々を残し混合された、その後もずっとこの基本的な構造を留めた、言わば日本語の基層だと考えています。

(注:赤い点線矢印が、2万年前頃の北、西からの新たな渡来です)

①九州から広まった祖人によって列島中で話された第1祖層・祖語、②北と西からの新たな狩猟族流入による変化の第2層・縄紋語、③大陸から渡来した弥生稲作系を主に形作られた第3層・基層語、という変化を我が国の始まりの頃の言葉の歴史として考えています。

そして、基層(第3層)に残された我が国の南・北端の古代の言葉の痕跡からその変化の流れについて、古い日本祖語にまで思いを馳せられることが何と言っても特徴でしょう。

そして、それが人類史の古い出アフリカ古層A型の類型であることが特筆されます。

日本語が、簡単にぴったりあの言葉系であると言えない事こそが、大変古い混じり合いの言葉、そしてご先祖様だということになります。

最新の研究により、米大陸太平洋沿岸を含めて、環太平洋語族と括られて認識されるようになったことが、何よりも現生人類の環太平洋時計回りの移動移住MPOR説を裏付けるものと考えています。

今年は犬年で、日本でワンワン、アメリカでバウワウ、ロシヤでガフガフ、インドネシアでゴンゴン、・・・ですが、聴く人の耳の差でしょう。

でも、2度繰り返す畳語であるのは共通です。

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(了)

 

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