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位置としては、アジアの楽園Sundalandの中央になりますシンガポールに行きました。modernでcleanで花々もきれいで豊かな現代の楽園でしょう。

建国50年を祝う賑やかさの中にライオン(シンガ)と大きな船、水に親しむ海の民を見ました。そして、19歳で全員例外なく2年兵役につき、その後もずっと練度維持を図って楽園を守り維持します。(スイスの例を出して恥かいた先生にこの例も教えたいです。唱えるだけでは楽園は守れません。)地下鉄規律でもしっかりです。そして、何より戦略的思考のお手本と言うべき国と思われます。

マーライオン

海の民

海の子

徴兵

規律

さて、万年ハンターの本題です。残念ながら、まだ当地の視野は国立博物館では700年前でしたが。

当地の第4公用語はタミル語です。イギリスがプランテーション労働力としてインド亜大陸南部から連れてきた人たちですが、あのインダス川岸のモヘンジョ・ダロを築いたドラヴィダ人Dravidian系でその寺院の台型造形の基礎は、既に報告のスクー寺院、マヤピラミッドに似ています。

国立博

700年

タミル寺院

遙か大昔に海に沈んだ(Sundaland?)栄光の民の末裔神話を大事にしているだけでなく、新人類の出アフリカ後の東進・北上ルートの始まりの方の人たちで私は注目しています。

更に、大家の大野 晋先生によれば、世界で日本語に最も近いのはタミルTamilの人たちの言葉で多くの単語が取り入れられているとのことです。先生は、真珠交易などの諸点も挙げられて説明されていますが、両者があまりに離れていることもあり学界では未だ、?の謎です。

しかし、あんなに近い大陸の言葉と日本語、心根が違う方がむしろ不思議と思わねばならないでしょう。

アジアの楽園Sundalandと人類の東進・北上の海ルートを理解する私には、西と北の言わばはずれに残った2つの言葉が近いのは不思議でも謎でもありません。交易で栄えていたタミルの人たちは、ルート途中に多くの租界を持っていたのでしょうが、長い間に失われ痕跡も見つけられないということでしょう。

人類の進出

そして、シンガポールにはまだまだ注目すべき点がありますが、次回といたします。

 

 

 

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楽園Sundalandの遺産についてです。スクー寺院は、ラウ山腹にあり世界遺産登録を目指していますが、当国の世界文化遺産4件のうち3件(サンギラン、プランバナン、ボロブドゥール)が中ジャワのジョグジャ周辺に集中しており、他の1件は東のバリ島です。(下図参照)

ジャワの要図

スクー寺院の本殿ピラミッドの様式が、メキシコと中米で栄えたマヤのピラミッドに酷似している不思議さは前回述べました。

当国の研究家Samanthoによれば、スクー寺院(1,360年頃。1,186m)、近くのチュト(1,470年頃。1,400m)、東部のプナタラン(13世紀から1,415年頃まで。450m)のこれらヒンズー系3寺院の本殿及び伽藍内の構築物が、当国の遺跡の中で異質だと言います。

バリ島もヒンズー系ですが、中ジャワのプランバナン寺院のようにコーンアイスクリーム型かあるいは多重塔型で、インドでも見られるものです。

スクー寺院は、伽藍軸線は高山の山頂方向、石積み3段のテラス構造、地域に対する見晴らしの良さなどグヌン・パダン遺跡に通ずる点も見られます。しかし、本殿、彫像などジャワ王宮や地元の石工・木工による様式ではなく、また急造という指摘もあります。

テラスの段

下住民下の住民

そして、他の寺院もそうですが、この3寺院は本殿、あるいは彫像、レリーフにヒンズー・インドでなく、中東やメキシコ・中米のものと類似性があるものが多くみられるのが特徴です。

例えば、スクー寺院の彫像に羽がついてるものがありますが、幸い顔が残っているものがあり、鳥人です。人のようですが、顔は鳥であり、足の指爪も鳥です。また、はっきりしている写真左の彫像の顔も当国の人ではありません。

頸無の鳥鳥の万歳

 

Samanthoによれば、このような鳥人ものは、下の写真の左がスクー寺院、右上がマヤ、右下がユダヤ民族が過越祭の晩餐で読む有名な冊子にみられる鳥の頭を持つ人だそうです。

スクーの万歳

そして、鳥人はメソポタミアのシュメール(Samantho左)、バビロニア(同右)とも共通性があります。

鳥人のメソ 鳥人noバビロニア

他にもいろいろありますが、その一つはアッカンベーで、東ジャワ、バリ島とメキシコ・アズテック文化のものが類似です。

バリnoべろ

アズテックのべろ

日本では、相手をバカにする良くないことですが、チベットでは尊敬を込めた挨拶だということで(2枚舌ではない?)、おそらく上記の写真などは尊敬を込めたものに通ずるものでしょうから広域の話です。

そして、Samanthoは奇妙ともいえる彫像・レリーフの造形の数々、遠隔地でのその類似性から、現生人類が、巨人(鬼)族や類人猿と共存していた時代の記憶を伝えているとしています。

また、それらの寺院等の定説の建設年代とは別に、造形の元になったイメージは当地域発であろうとしています。

スクー寺院など、遠隔の他地域とこのような類似性を有する内容については、現時点では推測も憚られ、やはり「不思議」としか言えません。

更に、私には気になる点があり、次回報告といたします。

 

 

アイヌ―沖縄―台湾高砂族という繋がりの音楽と踊りの催しは、私に現生人類の進出展開の東進・北上ルートを感じさせるものです。

最近の資料から、私が整理しているルートに関する研究チャートは、以下のようなもので以前掲載したものの年代が一部修正されています。

最近、出アフリカについて、エジプト-シナイ半島ルートがでてますことと、アラビア半島南ルートは5万年前と遅くなってますのでその後のスピードは、はっきり西方向と異なっています。

人類の展開9.16syuku

2万年前頃としてますが、最終氷期の最寒冷期(LGM)の寒さとその前後の比較的暖かい時期に北海道への南下や米新大陸への移動が見られます。

また、1万2-3千年頃の寒冷ぶり返し期(YG期)には、特に欧州・シベリア等では、南への大きな人の移動が、直後の暖かくなった時期にはスンダランドの多くの地域が極の氷が融けたことによる海面上昇で海没している点が注目されます。

図では表現されていませんが、進出展開後の複数回の南北の大きな人の移動(欧州では東->西も)の影響は大きく、環境に恵まれて人が集まったスンダランドでの異質な文化の混じり合いが文明開化に繋がっていったものと考えています。

基本的には、戦いの多い、戦いに強い、大型哺乳動物の狩りで暮らした北、西の人たちに比し、東進・北上ルートの人たちは水に馴染み、海浜、河川地域で水産物にも頼り暮らした穏やかハーモニーの人たちというイメージを持っています。

今を考える源流探究のチャートとして、引き続き研究していきます。

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音楽と踊りは、新人類がアフリカから出る時も受け継いできた根源的なものであり、縄文の音楽を再生していただけば、「アジアの楽園」Sundalandからの北展開ルートとして分かり易いなあと夢想しています。

「原初の唱和」ライブ【花綵(はなづな)列島の仲間たちの出会い】
2015年冬、日本の博物館収蔵のタロコ族文物の調査のため日本を訪れていた東冬・侯温(トントン・ホウウェン)を、新横浜オルタ・スペースでの「花綵列島の民が集って」コンサート(1月12日)に招いたのが日本での初演。

彼の歌に触れた聴衆からは「神が降りてきた声だ」「衝撃的」などの賛辞が相次ぎました。

このとき共演したアイヌのパフォーマンスグループ、ヤイレンカの歌に感銘を受けた東冬が、タロコにも同様の集団で歌う歌があり、次回はタロコの集落で歌い交わされてきた歌と踊りを、日本の先住民族であるアイヌの歌舞とともに披露したいと希望したことから、この夏の一連のコンサートが実現することとなりました。

東アジアの東端、花綵列島に位置する日本〜沖縄〜台湾の人々の絆を深めたく思います。(注:主催者の原文のまま)

という催しが大田区の池上實相寺で行われています。

いつか当地の竹楽器アンクルンや竹笛、途中のフィリピン、カンボジア、ベトナムや中国沿岸・南部などからも古い民族音楽が加われば、素晴らしいことと思います。

fbcdn-sphotos-e-a.akamaihd.net

 

「アジアの楽園」Sundalandでは、ここバンドゥン近くのGarut郡など黒曜石は豊富であり、先史時代に使われていました。

黒曜石縮

旧、中、新石器(Sejarah untuk SMA Kelas Ⅹから)

25日付の朝日新聞で、伊豆半島沖の神津島(Kouzushima)で発見されている万年のハイテク石器素材の黒曜石と舟の行き来が、驚きの古い年代(3万8千年前)と報道されています。

朝日黒曜石

楽園では4万年前頃には、今に繋がる新人類のワジャック(Wajak)人が確認されており、海辺の洞窟には手形などの造形が発見され欧州史学界を驚かせています。

ワジャック説明

ワジャック人縮

ワジャック人の歴史(サンギランのジャワ原人博物館から)

人手縮

洞窟に残る手形など(Sejarah untuk SMA Kelas Ⅹから)(最近の豪研究陣による測定結果は、4万年前頃)

長江・黄河文明を築いた人たちや年代が定説より数千年遡るとみられるアメリカ新大陸へ渡った人たちも楽園地域の末裔ですし、万年前の中東と東アジアの関連や黒潮に乗った人々なども、「アジアの楽園」海陸両用の民という補助線を引けば、記者さんにもそれ程の驚きでも謎でもなくなるでしょう。

壁画の舟

洞窟壁画の舟(インドネシア国立博物館)

できれば、グヌン・パダン(Gunung Padang)など当地の遺跡が、お国の超ハイテク機器で更に調べてもらえることを当地の人も期待しています。

Nara Akiraさんの写真

そして、我らが本家の楽園Sundalandの静かな海が、最近騒がしくなっていることにも皆さんの目配りがいただければと思います。

Nara Akiraさんの写真

(Nias,dari masa lalu ke masa depanから)

友達の米人の情報では、米国の科学誌ScienceやNatureに米新大陸への人類の展開について驚きのDNA分析の新研究結果が発表されているようです。

以下、考察です。

1.新大陸へは考えられていたよりもずっと早く、ベーリング陸峡経由
  で23,000年前以降、大きな1回の移住があった。
  後は、彼らの子孫の米国内での拡大の歴史である。

  (この渡峡時期は、同じく北から現生人類が北海道に来たのと同じ
  ころとなる。?)

2.南米、現在のブラジル・アマゾン地域に最初に来た人たちは、スン
  ダランド現在の東西地域(ニューギニア、アンダマン諸島の人た
  ち)とDNA上、最も近い。
  北米、中米、南米西側から移住した人たちではない。

  すなわち、スンダランド地域から北上、長躯ベーリング陸峡を越
  え、直路南下して、現在のブラジル・アマゾン地域に住み着いた。

北海道もさることながら、沖縄・石垣島の新空港工事で発見された大量人骨が、2-2.4万年前頃ということで、同時期であることから大いに注目されます。

日本については、3万年前頃、南から来た人たちが北上して北海道まで至ったものと考えられています。

今回の発見で、万年の先史において、スンダランド地域とアマゾン地域の人たちが直接的に結びついたことが注目されます。

この長距離の北上、東進渡峡、赤道越え南下という驚きのスピードの展開性から、西方への展開も推測されますので。

少しでもホームページを見てもらいたいと思い、facebookを始めて交流しています。断食明けルバランの休みに授業の復習をしていて感じ入った話を紹介しました。

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2人の旅人と1頭の熊-インドネシア語授業の復習(Dua orang pengembara dan seekor beruang)

あるとき2人の旅人が森の中を歩いてました。そしたら茂みから突然、熊が出てきました。

一人は仲間のことも何も考えず急いで近くの木に登りました。もう一人は、一人では熊に立ち向かうこともできないし、地面に横たわり息をころしてました、熊はしんだものは触らないと聞いてましたので。

木の上の者は何もしないで見てました。

熊は地面の旅人の頭のあたりでくんくん嗅いでましたが、一寸してから行ってしまいました。

木から降りた者が、聞きました。
「熊が君の耳もとでなんか囁いてたようだけど、なんて言ってた?」

横たわってた者が言いました。
「助けようとしないヤツを友達にしたり、危ない時ほっとくようなヤツと一緒に旅したりしない方がいいぞって。」

Nara Akiraさんの写真

(Mahir Berbahasa Indonesia untuk Penutur Asing から仮訳)

中部ジャワへの旅の最後の紹介はスクー寺院ですが、実に不思議な遺跡です。

中部ジャワ南部、世界遺産ボロブドゥールなどのある特別州都ジョグジャカルタからバスで北東上し、2時間ほどでジャワ原人の博物館のあるソロに着き、乗り継いで更に東へ向かいます。

最後はオジェッに乗り継いで、ソロから1.5時間位で地域の高山ラウ山(3,265m)の山腹の遺跡に着きます。

行きましたときはラマダン直前だったので、終わってからのイスラム教徒のお正月向けなのか修復中でしたが、観てお分かりのピラミッドです。しかもあのマヤのピラミッドに酷似と言われるものです。

本殿ピラミッドの正面の階段を上がって、頂部で焼香やお供えを捧げ祈ります。

本体の背景

伽藍中央の軸線は東西方向で、本殿は西を向いており、その正面の石積み、有名な亀石などと本殿の前方に立つ彫像は次のようなものです。

亀石とレリーフ  頸無の鳥

そのまま参道を西方の入口の方へ見ますと3つのテラスになっており、段差は1.5mくらいで石積みは小ぶりです。

3つテラス

第2の段差

テラスの北側には、象などの動物が並ぶレリーフ石群が目につき、南側は彫像ですが、私にはむしろお山ピラミッドが見えるのが印象的です。

北動物のレリーフ  南の方pira

そして、もう一つこの遺跡を有名にしているのが、入口の階段を上がるとアーチ大門の床面には、男女の性器が接した瞬間をアップしたレリーフがあります。

それとピラミッド前面右に控える「捧げ銃」彫像が立派な一物を左手で持っています。

神聖な性におおらかなヒンズー教に見られる特徴でしょう。が、ジルバブ被る当国を動いている私には一寸ショッキングです。

アーチ大門  捧げ銃

そして、私が不思議だと思うことについては、次回、ご説明いたします。

テレビの会見で断食明けが告げられ、外では花火が上がっています。

断食月の間は、日中は閉めていたり、カーテンを下して中で静かにという店が多かったです。断食明けの休暇に入り高速道の混み具合がレポートされるのは、日本と同じです。

多くの地元料理店が閉めるので、スパゲッティ、ステーキといったメニューの洋風店は、書き入れ時です。

明けが近づき、休暇を取り始める頃からネオンを派手にし頑張る店も出てきます。

ラーメン

レストランhp

そして、断食月明けの大祭ともなるとまず1番は、ケーキ屋さんでしょうか。

ケーキ屋

日本の年末と違うのは、日本が先生も走って忙しく仕事をこなそうとせわしないですが、ここでは断食してますのでゆっくり、そして早じまいです。

静かな休みに入っています。

夜景

ラマダン断食月明けのお祝いが週末ということで、休暇状況に入っています。此処では帰省することを川上に帰ると言いますので、万年の国らしいです。が、今では高速道が混むのは、日本と同じです。

活気を呈す一つは、宝石売りです。街にも売ったり、磨いてたり目立ちます。原石の掘り出し物があるかもです。

宝石縮

石磨き

教室では、接頭辞perにmata(目)を付けて宝石permataです。このmata目が、日hariとで太陽matahari、水airを付けて湧く泉mata air(逆は涙)、足とでくるぶしmata kaki、講義とで授業科目mata kuliahなどです。

目mataは、他に生業、釣り針、矢じり、刃、羅針盤方位、最近では核弾頭もある重要単語であるだけでなく、メソポタミア、エジプト、長江などの文明に「目」の強調が共通して観られます。アメリカのドル札にも見られます。

この先史からの伝統を窺わせる言語感覚の「宝石」ですが、此処の人の宝石好きは、指輪(チンチンcin-cinと言います)、ネックレスもわがカミさんが素敵、欲しいと言うのとニュアンスが違います。(ちなみに、恋・愛はcintaで、此処の歌では一番連呼される重要語です。)

「写真、いい?」

「勿論さ。一寸待て、まだあるんで付けるから。」(小バッグから取り出しポーズ)

人と宝石

「そうだ、小指の分もあるから一寸待て、撮り直しだ。」

「いやいや、行かなきゃいけないんで。それで十分、ありがと。」

文化人類学の先生によると、飾りは元々は交易・付き合いによる人脈の豊かさを示すものだそうです。良い品、高価な品、沢山の物は、人脈の良さ、高さ、そして広さを示すという訳です。

ボスザルのように群れの中で優越しているというところから、やがて天、神と語り・願い事できるという知的で精神性のあること、物的な財力を支配している、特に海洋の交易力があるといったことが、人脈の豊かさ、本人の偉大さになったのでしょう。

アメリカ・インディアンなど遠隔の地でも、特に酋長はいろいろ飾りをしてますが、理解できます。

万年のアジアの楽園Sundalandが注目されるのは、その気候風土、食べ物としての動植物のほかに、この貴重な鉱物(ダイヤも!)があります。

宝石は小さく、軽量、その後の胡椒などの香辛料と同じく海洋交易のパワー源です。そして、楽園は、西方(中東など)、北方(シナ、日本など)、東方(太平洋地域)へのルートの中間、中心の要でした。万年前の先史時代は近距離を繋いで行ったのかも知れませんが。

この鉱物もいたる所に火山があるからでもあります。そして、時には石よりも固い貴重・希少な物を見つけた人もいるでしょう。

「残念ながら、万年の時は鉄をも融かす。」(Danny Hilman博士)ので、使われたという証拠evidenceは見つかってませんが。

南方の歴史は、当時の木、竹、作物、相伝の工法・技、語り伝え、 そして遺骨・遺品も残り難く、evidenceは?と言われ泣かされています。

さて現在、この万年の宝石掘りは過熱気味で、政府は環境破壊を心配する状況になってきているようです。何しろここでも爆買いに来る人たちがいますので。

宝石の掘りHaloJepang

(Halo Jepang紙4月号から)

Stephen Oppenheimer

Weidenfeld & Nicolson, 1998

A book that completetly changes the established and conventional view of prehistory by relocating the Lost Eden – the world’s 1st civilisation – to SouthEast Asia. At the end of the Ice Age, SouthEast Asia formed a continent twice the size of India, which included Indochina, Malaysia, Indonesia and Borneo. The South China Sea, the Gulf of Thailand and the Java sea, which were all dry, formed the connecting parts of the continent. Geologically, this half sunken continent is the Shunda shelf or Sundaland. In the Eden in the East Stephen Oppenheimer puts forward the astonishing argument that here in southeast Asia – rather than in Mesopotamia where it is usually placed – was the lost civilisation that fertilised the Great cultures of the Middle East 6 thousand years ago. He produces evidence from ethnography, archaeology, oceanography, from creation stories, myths and sag as and from linguistics and DNA analysis, to argue that this founder civilisation was destroyed by a catastrophic flood, caused by a rapid rise in the sea level at the end of the last ice age.

「Nielsen BookData」

11月7日、英国ロンドンのクィーン・メリー大学において万年前の先史巨石文明等について、一般公開のOrigins会議が行われます。

当地グヌン・パダン遺跡については、調査リーダーのDanny Hilman 博士がskype参加する予定です。

話題としては以下のようなものです。

Gunung Padang, Gobekli Tepe, Stonehenge, the Great Sphinx, and even the newly discovered stone circle located beneath the waters of Lake Michigan.

 

origin会議

大石に乗った人に目が行ったと思われる下の写真ですが、私が注目しましたのは、大石運びです。

ニアスの葬送

(SEJARAH UNTUK SMA kelas Ⅹから)

万年前の(トルコ)ギョベクリ・テペGobekli Tepeも(英国)ストーン・ヘンジStone Henge も、弔い、祖霊信仰の巨石遺跡の造築のため、大石を運んでいます。

上の写真の説明では、亡くなった人のために建立するものですが、祖霊を呼び集め、石が今後亡くなる人の身代わりでもあるため、大きければ大きいほど戦いや疫病で亡くなる人が少なくなると信じられた極めて重要な葬送式です。

写真で分かりますが、目的地での建立だけでなく、大石を運んでいくプロセスそのものも重要です。運び手も集まっている人々も共に精神的に高揚していきます。

我々の身近にも目的は違うように思われますが、願いを込めて引き観客がいる移動のプロセスも重要な行事はいろいろあります。そして、上に人が乗っているのも重要なことです。

京都市観光協会神田明神千代田区観光課

祇園祭り(京都市観光協会から)   神田明神祭り(千代田区観光課から)

岸和田市観光課ニアスの葬送

だんじり祭り(岸和田市観光課から)

こうしたことから、弔い・祖霊信仰のギョベクリ・テペやストーン・ヘンジが長距離を大石を運んで造築したことも理解できます。

できるだけ大きな、立派な石が良いことも、人々が大変な労力と時に事故死亡の危険を甘受して建立したことも理解できます。

時代は下りますがエジプトのピラミッドは、農閑期の失業対策事業だったという説が最近出され、定説化しているようですが、私は違うと思います。

前述の例を見ても分かりますが、基本的には精神的なものでしょう。現人神ファラオの造築に関わり貢献し精神が高揚し、来世が約束されるなどのご利益のある行事活動です。

活動後に酒肴が振る舞われ、何がしかの物がいただけたとしてもそれが主因ではないでしょう。そして、ファラオが神ではないと思われ始めて壮大なピラミッドは造られなくなります。財力の衰えも一因ではありましょうが。

スマホとバイクの行きわたる生活は、万年のアジアの楽園を急速に変えて行っています。貴重な写真や物も消えていきます。

それでもまだ、竹筒に砥石を入れて鎌を研ぎ、バナナの幹を管理し雑草を刈ってあたりをきれいにすることは行われています。

と石と竹

万年前にも有ったでしょう。但し、竹は融け、時の長さは砥石をも変形させ、矢じりでも斧でもないので誰にも注目されることもなく、ということかもしれませんが。

さて、話は変わりますが、現代のファラオたる民主制は、その行事たる選挙に若い人たちがまともに関わらなくなったとすれば、見放されかねない危ういことと大いに気になります。

神輿を担いでくれず、綱を引いてくれねば成り立ちませんので、なだそうそうの事態です。

前々回、一緒に考えましょうと言ったのが下の写真です。これは、1920年に撮られたインドネシア・ジャワ島の北西の北スマトラ州(最近、Medanに飛行機の墜落事故でニュースに)の西に位置するニアスNias島の一コマです。

なお、メダンMedanでは、13,000年前ころの石器が見つかっています。

ニアス島はスマトラ沖地震被害で世界に知られ、また、サーファーの聖地でもあります。愛媛県くらいの大きさで、ニアス族は60万人くらいです。

ニアスの葬送

(SEJARAH UNTUK SMA kelas Ⅹから)

Niasの地図

(Atlas Sejarah Indonesiaから)

住んでる家も写真のようなものから、舟を並べたような密集住宅など特色があります。人は北の大陸から来た人たちですっかり大昔とは変わっています。

いかに北の大陸から多くの人々が楽園に南下し、住みついているかがよくわかります。

石器時代の遺跡などがあり、その歴史習俗もユニークでした。また、濃い密林地域はよく分かっていない所もあるようです

nias海傍の家niasの人

(Nias, Dari Masa Lalu Ke Masa Depanから)

さて、

皆さんの目についたのは、大石に乗っている人でしょうか。陣羽織、裃のようなものを着ています。ニアスでは、このような格好で長い槍を手にした大勢の雑兵戦士たちが、戦いを表現する踊りを踊っている古い写真もあります。

日本をよく知っている当地の人は、日本のサムライものを見るとあれはニアスだねと言います。

・今日は「裃」を脱いで無礼講でまあ一杯

・あいつは「肩」いからせて街を闊歩してる

現代の日本でも裃、肩の入った表現は沢山ありますが、肩張ったニアスとのこの類似性は不思議です。

北東の行き詰まりの日本と南の行き詰まりの小島ニアスに見られるわけですが、その離隔は相当なものです。両者の途中には、この裃、張った肩の痕跡はないようですし。

私は、ニアスが江戸城の真似をしたとは思いませんし、双方独立的にこのデザインを考えたとも思いません。歴史においては遠く離れた両端に同種が残ることはよく見られますので。

どこか大陸に源があって双方に伝わったが、源の方は痕跡が残っていないのではと思います。あるいはひょっとして、楽園からサムライに伝わったのかも知れません。

と言いますのは、ニアスにとってこの格好は古くからの行事に関係し、かつ、非常に重要なものだからです。その点を次回、お伝えします。

朝、いつものように出かけてアンコッ乗合ミニバスの助手席に乗ってましたら後ろでゴトンゴトンと音がしますので、何かと思ったら沢山の椰子の実を積んでます。

ミニバスの椰子

結局、後ろに一人婦人が乗っただけで出発し、3-4百m進んでUターン。あれれと思ってますと、反対車線で停車です。すると初めに積んでたおじさんがバイクで先行していて、降ろしにかかってます。全て終わって50円(5,000ルピア)札を払ってました。

子供のころは、高価でバナナでもなかなか食べれませんでしたので、椰子の実なんて「名も知らぬ遠き島より流れ寄る~」と歌うぐらいの物でした。

ここでは、バナナや椰子は、犬・猫もまたごうかというくらい(ま、当然ですが)の状況です。現在は、日中の断食後にまず口にするものとして使うため出回っています。

椰子

楽園の人たちは、おそらく身近に餓死,凍死を見聞きせず万年を暮らしてきたのだろうと思います。穏やかで取っ組み合いを見ることもなく、暑さもあって歩きも東京よりゆっくりです。

用事を済ませて別のところへ行くため、再びアンコッに乗りました。断食の日中だからか私一人です。ムスリムのジルバブ被ったおばちゃんが3人乗ってきて、一寸したら一人が、

「その時計いくら?」と聞いてきました。

「はあ?(車内初対面ですよ!?)いやいや、安物ですよ。」

「ふ~~ん。(もう一人が小声で日本人じゃないの?と教えてます。)」

「(あんたら、オオサカか!?)・・・」(大阪さん、失礼)

ついでに撮ったことない車内写真を撮りました。話題主は、写ってる婦人ではないです。

おばちゃん

変わった1日だったなあと帰宅して、濡れスリッパで階段下りて(油断)、滑って転び、打ち身です。元は木と竹の民です。イスラム教とアラブ風が入ったせいで風呂場、階段、床がタイル張りで危険です。当地に来られる方は、このことはご留意ください。

いやはや、全くなんという日(日本時間は昨日6日)だったろう。歳なんで明日が痛くなりそうです。明日は、あの2人が会う佳き日、当地は乾季でハレに決まっています。

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