(東京・札幌五輪) 日本列島史の始まり、沿岸北上ルートに注目!

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1図、重要な我々の日本列島史の始まりのこの図は、不思議に議論されず見ないでしょう。

2図、前回紹介の東大TVで、出アフリカから沿岸を東進した現生人類が、スンダランド地域で①東進を続けて豪に向かい、海を渡ってアボリジニになったグループと②沿岸を北上したグループになり、それはやがて当時は海水面が低下して形成されていた「北東ア平野」に至ります。因みに、対馬暖流が流れ込んでおらず日本海側に大雪は降らない状況で、北海道に北上し、沖縄に南下しました。さて、1図の「北東ア平野」(朝鮮山地の南端部含む)と「曙海」という現在とは違った海水面上昇の当時の状況をまず認識することが必要です。しかし沿岸部は海面下で、地域における考古遺物の発見は無く、そのため記述できない、教えないというのが学界の事情という訳です。

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にも拘らず、多くの博物館や巷間本では東大TVと違って、2図の動きを無視し、上図のように、樺太から、朝鮮半島から、南西諸島からの3方向から人々が来て日本人が形成されたような、時代を全く異にする、可能性の高い沿岸北上ルートを挙げない、列島史の始まり状況ではない「誤り」を堂々と記述しています。

2図、豪の場合は、国立民博の堀江・小山チームの優れた研究(1991年)で、また、近年の豪研究者によって、最も可能性が高い移住ルートは実は「北ルート」だと報告されています。無論、渡海が容易で諸状況を考えて最も可能性が高いルートが事実だったのかは、実は分からず実証もされ得ませんが、この研究の意義は大きいです。それなのに、なぜ、我が国にとって重要な、容易で可能性が高い北東ア平野沿岸の曙海西岸の北上ルートが、全く無視されて研究もされていないのは極めて学問的に異常です。台湾から与那国島への航海実験が行われましたが、求められているのは世界的にもこの沿岸北上の北部九州への渡海の理論研究なのです。北東ア平野の沿岸北上が有力な1例として教科書で紹介されたとき、大きな前進と言え、将来の歴史考古学の発展も期待できるのです。

プーチンもおらず北海道で止まらずに北上を続けたであろうという、前回の可能性の指摘も全く同様で、歴史考古学の世界も仮説、理論的研究及び実地の検証の学問態度を更に進めるべきで、子供に教え世界に発信を。

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