(5)史上の「宝の島」からフェニキアPhoeniciaについて考える―その3

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さて、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話です。

古来、地中海から紅海に抜ける海路があったとみられており、現在でもスエズ運河はパナマ運河とは異なり地中海と紅海の水位差のない海路です。今は、大型船が通れるように川幅、水深も拡張され船団が離合できるように施設も整っています。

アレキサンダー大王のころの以前から地域では、東方に宝の島があると言われ、金、銀、宝石や香り高く、『スパイスの王様』と呼ばれるシナモン、籐などがもたらされ、そこには多様な動物がおり、象も知られていました。

これらが、エジプト最盛期以来の紅海を経る航海貿易を独占していたフェニキア主導で行われていたものと考えられます。

昔の世界観は、大洋に囲まれて欧州、アジア、アフリカという3大陸地が存在しているというものでしたので、アレキサンダー大王は陸から東進しインドに進攻して、コロンブスは西へ航海して、いずれも「遠いインドの東」を目指しました。

地中海

 

ギリシアにおける遠い東の宝の島Taprobane―Taprobanaなどという名は、アレキサンダー大王の東方遠征におけるインドからの話であり、それはドラヴィダ族が伝えていた祖先の地あるいは地域の川の名とも言われています。

作成された下図は、プトレミーが聞いた話から中世になって描かれたものですが、多くの都市、川、部族、港など詳細にわたり、当初はそれはセイロン(スリランカ)だろうといわれてました。が、スリランカの周りにはプトレミーの描く沢山の小島は有りません。

昔からずっと話題にはなっていますが、それぞれが聞いた伝聞話なため、島の大きさについても全く異なっていて大きさはイギリスと同じくらいとも言われましたので、スリランカでは小さすぎます。その後、16世紀初頭のポルトガルが進出するころには、マラッカ海峡の南の現インドネシアのスマトラ島がそれとして描かれているといった具合です。

そういう中でスマトラで注目されるのが独自の伝統社会(母系、牛神聖視、出稼ぎ活躍等)を守っているミナンカボーと呼ばれる人たちと島最初(起元前)と言われるカンディス王国の宮殿遺跡です。

いずれも考古学的にはマレー半島から5-4,000年前頃にスマトラ半島に来た人たちで西側(中心はパダン)にミナンカボー、東側(中心はジャムビ)にカンディス王国、境界にはケリンチ山(3,805m)が聳えるという訳です。

谷一つ越えると風俗習慣が違うといわれるこの地に在って、マラッカ海峡を挟む両側の人々の今に残る共通性はマレー王がスマトラに王宮を設けた時代があったことを考慮しても驚くべきことです。

海峡が陸地であった万年にわたるパンカル半島の長い歴史の積み重ねを感じさせます。

両者が注目されるのは、アケドニア・ギリシアのアレキサンダー大王から東南アジアを託された3男Diraja王の末裔だと称し、特にカンディス王国の宮殿Dhamnaは、大王のいやアトランティスのレプリカだと言われている(Ahmad Samantho)ことです。

下図の硬貨のアレキサンダー大王の耳をご覧ください。ミナンカボーの人々が大切にするシンボルの神聖な牛になっています。

アレクサンドロス大王のコイン

アレクサンドロスの帝国(ネット 世界史講義録から)

歴史的に大王には息子たちはいなかったし唐突な話ということで注目されていませんが、ミナンカボーは、独立のNo.2ハッタ副大統領等の要人を今も輩出しています。

伝えられている話ではジャムビのDhamna宮殿は中国遠征軍(Sintong王)に滅ぼされましたが、近年の発掘(予算の関係で不十分)により、外堀・垣・入口・境界塔柱石などと思われる痕跡が確認されています。

私がこれらの言い伝えや遺跡に注目しますのは、アレキサンダー大王の支配下に入ったフェニキア(BC330年頃)が、エジプトと共にPunt遠征をした金、宝石、木材、香辛料等の宝の島スマトラに、大王子孫を語るギリシア勢力の者たちとも共に来て途切れることなく貿易を行っていた痕跡、証左と考えるからです。

インド洋を越えたパンカル半島の玄関口スマトラに至れば、あとはジャワ、ボルネオ、スラウェシ等の域内の宝物の入手は困難なことではありません。

次回は、そのフェニキアが更に足を伸ばして広域の貿易等を展開した話といたします。(小旅行で少し間が開きますが。)

以上

 

 

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