曙海の畔、印・タミル海人が来た?!

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歴史における海人(漁撈・採集・交易・海賊・狩猟耕作等)は、書き物を残さず寡黙なため妥当に扱われていないと感じています。

舟ノウハウは体得ですし、一人山に入るキノコ取りのように人に教えず秘密体質で、何より板子一枚下は地獄と言われる厳しい生業なので饒舌にはなれないのでしょう。

曙海も温暖化の時代を経てゆっくり海面が拡がり、採りあげる3~2千年前頃には、今のようになっていました。

問題は縄文時代末期以降、中国長江から、朝鮮半島から稲作や鉄が入ってと学校で教わりますが、入って来た水稲は朝鮮半島には無い米種です。

それはインド南部・タミル海人を、いや北九州の宗像・住吉海人等を忘れてもらっては困るという事で、北九州の海人地域で採用した稲作から始まった事が、象徴的に重要です。

祖代・縄文時代に曙海の畔には、海人のネットワークが出来ていたでしょう。

上図の右下に、貝紫の染めを書きましたが、世界の海人フェニキアが、3,600年前頃に技術を有した貴重な帝王・特権階級紫をアッキガイ科巻貝汁から作りだすもので、吉野ヶ里(交易拠点)で発見され、作家有吉佐和子さんはフェニキア人が来たと言ったそうです。

フェニキアは秘密主義でしたが、北欧、アフリカ喜望峰回り、豪州などまで動き回ったようです。一航海3年というのもあり、現地で農業生産までしていたと言われています。

何しろ彼らのフェニキア文字がアルファベットになった事、また、相手が真に欲しがる貴重品を何処かで手に入れて交易する、と言われた事がよくその活躍を示しています。

さて、アジアのタミル海人(後の日本呼び”マドロス”街あり)は、この頃ベトナム迄はっきり痕跡があり注目です。

言語学泰斗の大野先生は、稲作用語にも日・タミル語の多くの類似性があるのに長江の民とは無い、また、正に来ていた時代に埋葬の甕棺が酷似しているなど諸点を挙げてタミル海人が来て文化を伝えたと主張しています。

船着き場地域―後背地―川上地の繋がりエリアが、曙海畔のみならず縄文時代の他の地域、いや、かなり後の時代まで続く特色あるあり方です。

稲作・金属の拡がりと大幅な人口増を経て、中国を知って採用された碁盤の目のような〇〇京時代とは違う、海人ネット社会という在り方でした。

何故、タミル人が来た?

大野先生は、中東・欧州で珍重された日本真珠を挙げてますが、翡翠、オオツタノハ貝、宝貝なども有りました。

(了)

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