日本の始まり、日本祖人の時代を考える③-日本列島への渡来・定着について

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現生人類は、出アフリカを果たして緯度にあまり差がない印度南部から東方の海浜沿いにパンカル半島Sundalandを経て、4.5~5万年前頃には数十kmの海を越えて豪に達しています。

他方、遺跡などから4万年前頃には、日本列島に達していると考えられています。まずはベトナム方向からとフィリッピン方向から北上したことが考えられ、内陸方向からもあり得ますが、内陸は起伏激しい道なき道で猛獣や毒蛇などもおり、寒暖の差も大きいです。

DNAを調べますと、日本人は近くの中国や朝鮮半島の人たちでなく、なんとパンカル半島に近い西のあまり人が行かないアンダマン諸島及び内陸奥のチベットの人たちが近い、古い痕跡が残っているということでということですので、始まりの4万年前頃は、この地域が広い範囲で同様の人たちであったことが分かります。

いずれにしても日本へは、東アジア平野に至り東部沿岸から舟で海を越えることになります。海で舟を操って目的地に達するためには多くのknowhowを必要としますので、九州へは、沿岸ルートを北上してきた海辺の民であったろうと考えます。

日本へ渡来する1万年前の約5万年前頃に、現生人類は、画期的な進化を遂げたとみられています。それは神経系の進化による言語コミュニケーションの大きな進化と複雑な自然や自分たちの社会を把握理解し、それへの対応を組み立てる脳力だと言われています。

日本へ来る前のパンカル半島地域では、洞窟において岩絵が描かれており、豪へは舟か筏か、数十kmの海を越えて渡り住んでいます。また、貝塚などから水産物をよく食していたことが知られています。

これらのことから、日本祖人は、はっきり原人・旧人と異なり、現代人への一歩を踏み出した状況で舟で海を渡って日本列島にやってきたことに思いを致す必要があります。

今では数十mの海面上昇により遺跡の発見は困難ですが、石器のほかに木や竹を使った種々の道具などがあったものと考えます。

当時は海水面が低かったため、東アジア平野が日本列島に迫っており、地域は陸地で取り巻かれた東亜地中海(台湾 凌教授)と呼ばれる状況で同様のものでしたので、日本の始まりが、下図のAからか、Bからかは、それ程大きな問題ではないでしょう。

日本祖人は、色の浅黒いあるいは茶褐色で眼のクリッとした小柄でがっしり、体に入れ墨や彩色を施して舟を操り、水産物を多く食する採集狩猟の海辺・川辺の民で、まとまった地域間の交流のある暮らしぶりでしたでしょう。

 

瀬戸内海や東京湾などが陸地であった日本列島を、まずは九州から列島の海浜地域(瀬戸内盆地を含む)を北上し進出(水平拡散)していったでしょう。気温が今よりも2-3℃は低かったものの、遺跡の状況から、3万年前くらいには本州及び北海道東部にまで進出していたようです。

また、当然のことながら後からも同族が渡って来たことでしょうから、海辺から河川を内陸に上がって(垂直拡散)海辺とは違った山間丘陵の川辺の暮らしに適応していった人たちもいました。日本の始まり約1万年間の始原時代は、このようなものであったでしょう。

ところが、2万9千年前頃に南九州錦江湾で姶良大噴火が発生し、火山灰は東北にまで至り、寒冷化した(千年くらいともいわれる)と考えられ、九州は壊滅的な被害を、西日本も大きな被害を被り、日本祖人が列島に定着を果たした始原時代は終わったものと考えます。

明らかに人口急減の西日本と残った東日本という変わり果てた日本祖人の状況で、大噴火の影響がおさまるにつれて同族、一部新たな部族が東アジア平野から進入し、一方、東日本から西日本に移り住む人たちとで被害も回復し再興していく時代が約1万年、そして土器出現により命名されている縄文時代となっていきます。

日本は、いろいろな点で西日本と東日本に違いがありますが、太平洋側と日本海側の違いをも含めて最初のこの姶良大噴火の影響が契機なのではと考えています。

さて、再興時代の後半には、質的に新たな寒冷降雪環境への北方適応を遂げた人たちが、新たな生活文化を携えて北部東アジア平野のみならず樺太方向からもマンモスを追い多くの人が入ってきました。

正に、狩猟中心の内陸勢力の東進南下の進入です。

そして、東方ユーラシア先史の基軸となります、2万年前頃の本格的な内陸勢力の東進南下の渡来進入が、その後も気候などの環境要因により、あるいは戦乱を逃れるなどで断続的に古代まで繰り返されることになります。

但し、日本の場合は、進入勢力が大きくてそれまでの人々を排除して入れ替わってしまうということはいつの時代も無かったようです。弥生時代のように、渡来勢力が数は多くなくとも人口増加率が大きいなど、その影響力が大きかった時代もありますが。

ユーラシア東部のアジアでは、内陸でのこの北方適応を果たした勢力による東進南下の各地への進入が、歴史の大きな基本的特徴でしょう。

さて、この4万年にわたる長い時代を有する日本には、当時を全く想像すらできなかった明治のお抱え外国人学者が欧米史をもとに唱えた「先住民」という概念は適切でなく、強い者が他を攻撃する、抑圧する、差別するといった勢力争いや人権問題はありますが、いわゆる先住民問題は無いと考えます。

アイヌの人たちの語り伝えでも、先住していた人たちを北千島の方へ追い払ってしまったような話があります。4万年前頃の日本祖人の進入・定着からこの太平洋に面する行き止まりの島々にいろいろな人が入って来ました。

坩堝のようになって熟成されたこの国には、現在も人権問題はあるのだろうと思いますが、はっきり先に来て住んで居たと言える人たちの先住民問題と呼ぶべき状況ではないでしょう。

どちらが先かは容易にはわからず、先に来て住んでいた先住民の子孫勢力が、後から新たな方向から来た人たちを抑圧している場合もあると考えられますので、明らかに米・豪のケースや後からの漢族が先住少数民族を抑圧している中国の状況などとは異なります。

長い歴史を有する日本の場合は、あくまで先住民という表現を冠すべきでない人権改善問題であり、誤解を与えないように国連での取り扱いなどを是正する必要があると考えます。

(了)

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