「歴しニア」報告 世界人類史、出Hokkaido問題に光を!

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現生人類は、30-20万年前にアフリカで誕生し、10万年前頃からの出アフリカが正にエポックメイキングで、東に北に西にと世界に拡がりました。そして今、最後の謎とも言うべきアメリカ新大陸に、「誰が、何処から、どのように、いつ頃」入って行ったのかが議論されています。

それまでは、「シベリア狩猟族(マンモスハンター)が、ベーリング地峡からマンモスを追ってアラスカに入り、無氷回廊 (カナダ~北米)が開通した(1.4万年前)頃に米国本土に入って来たというモノでしたが、南米チリでそれより古いモンテ・ヴェルデ遺跡が、多くの学者を招いた現地調査で認められ、図右①先駆者アーランドソンの沿岸・昆布ハイウェイ進入説に光が当たるようになりました。更に米本土で1.6万年前級の遺跡の発見もあり、丁度氷河期が終わり温暖化した1.7万年前頃に入って来たというようになり、北海道ルート新説も複数の学者が動画で言い出しています。そこに、昨年9月のニューメキシコにおける2.3万年前頃の子供たちの足跡発見で、時期が数千年早まる衝撃が加わって、「誰が、何処から、どのように、いつ頃、」入って行ったのかを統一的に説明したものは未だ出ていない状況にあります。大勢は、なんとなくまだシベリア狩猟族をイメージしているのかもしれません。何しろ、海水面の数十m上昇で沿岸痕跡は海中ですし、2.3万年前に入って来るなら氷河期の最盛期の寒さの中の移住となりそうですから、学界の静けさも理解できます。残念ながら、新たな試みの海中探査や沿岸の調査から未だ突破口は開かれていません。

②そういう状況で温故知新、東京帝大助教授の鳥居龍蔵の現地調査と各国の千島・カムチャッカ・チュコトの研究資料研究は、当時として慧眼の深堀りがされており注目に値します。海民というべき北千島アイヌ・ルートン・チュプカ(人々の呼称は種々)は、明らかに北海道アイヌと違った「余程古い」石器人暮らしで、カムチャッカ半島南端部のクリル湖地域にまで進出していた事は、カムチャッカ人と争いのあったこと、特に③オホーツク正面の地名がルートン語であることからも分かります。そこに至ってたならば、アメリカ沿岸進入において直接的に注目される➃シベリア東端のチュコト人伝承の古い先住石器人であるオンキロン海岸族(図の青、赤、黒の考えられるルート)との関連が注目されますが、⑤北海道祖人の古さに比し、大陸~樺太の南下ルートからは、1万数千年前からの細石器文化の進入ですし、チュコトで確認されているのは海岸族から陸上内陸だが沿岸に近い狩猟族への転換変化という逆の流れから黒ではなく、青または赤となりますが、北極海赤ルートの氷河期移住は困難だったと考えられ(チュコト地域の遺跡は温暖化後の1.5万年前頃から)、青の沿岸北上ルートの可能性が高いでしょう。

いずれにしろ辿り得るこれらの残された痕跡からは、北海道祖人Proto-Japanese Hokkaidoが北上したカムチャッカ進出は考えられても、ニューメキシコに2.3万年前に到達する2.5万年前頃の時代に、カムチャッカ半島から海を越えての南下、樺太から狩猟族が北海道に進入したとは考えにくく、むしろ逆に出北海道の方が説として導かれます。 学界に、出北海道説が見られないのは学問的に誠に不思議な事です。理論上として、子供に教え世界に発信すべきです。

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