(4)史上の「宝の島」からフェニキアPhoeniciaについて考える―その2

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(雨でネットが不調でしたのと小旅していましたので間があきました。)

さて前回は、フェニキアの地中海での活躍と概史をお伝えしました。

それに比し東方での活動は十分には解明されていません。一つには、船、修船所、港、小租界といったものが、内陸勢力の強い影響の中で数千年という時を経て残り難いことがあり、また、万年では海水面の上昇による消滅もあります。

更に、やはり遺跡発掘とそれを基礎とする歴史認識を主導してきた欧州勢の関心が、地中海地域に向かっていたことは否めません。

しかし、フェニキアのエジプト・ファラオとの関係やユダヤ・Solomon王との関係などは、古い時代からの東方との外洋貿易をはっきり示していますので、まずは紅海、そしてインド洋西北のあまり馴染のないアラビア海が注目されます。

当然、紅海地域・アデン湾は最初にフェニキア貿易が行われましたが, やがてモンスーン(南西、北東の季節風)を利用するインド亜大陸への航海貿易に発展し、文化・文明を伴う貿易ということでは、ペルシャ湾のイラク・メソポタミア、北方からの人の流入で知られるイラン・ペルシャそしてインド亜大陸地域となります。

特に、インド亜大陸地域では、近年新たな遺跡の発掘(Mehrgarh、グジュラート地域など)による発見が多く行われ、いわゆるインダス川流域のモヘンジョ・ダロに代表されるインダス文明という認識ではおさまらない広域にわたる文明の存在が明らかになってきています。

(第1図)

(現代の国名図)

また、これまで紹介しましたエジプト・ファラオ及びユダヤ・Solomon王に加え、ギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobaneの話もあり、古くはこの地域のセイロン(現スリランカ)だろうとして盛り上がりました。

紅海・アデン湾から外洋に出て陸地沿いに航行した場合、まずはペルシャ帝国を築き上げたイラン地域となります。

氷河期の最終氷期LGMが終わった1万数千年前頃から人々が定着したとみられ、海浜交流と共に上図の3方向からの人の流入があり、遺跡発掘の成果から一貫して断絶なく着実な遺物の進化が見られます。

8千年前頃には、既にかなり高度な農耕(麦)社会が形成されて都市の原型(練土―煉瓦、漆喰、図柄ある彩文土器等)も見られます。

西のイラク・メソポタミアの影響ある遺跡や東部では近年、4千年前頃の都市文化遺跡も発見されており、独自色あるエラム人による文化(5千年前頃から)がこの地域にはありました。

しかし、産出する物品やペルシャ帝国においても陸上行動力、今に残る高原都市などの方が目立つことから、「宝物の地」と比定したり東方への外洋航海貿易を主導したとは考え難いです。

次に、これまでの歴史認識では、メソポタミアからインダスへ、エジプトへというものですが、近年の特にインド亜大陸地域での発掘により、検討を迫られているように思われます。

特にフェニキアに注目すますと、南西及び北東の季節風モンスーンを利用する航海の容易性を考えれば早い時期からインド亜大陸との貿易が始まり、パンカル地域へも発展したことが考えられます。

メールガルMehrgarh遺跡は、モヘンジョ・ダロよりずっと古い9千年前に遡るこの地域で生まれた文化を示していることが、多くの遺物を発掘したフランスチームによって明らかになりました。

更に、時を経たその青銅器時代の状況はずっと南の第1図のInamgaon地域の遺跡の方が直系であるという驚きの研究成果です。

そもそも9千年前にメールガル以外にもインド亜大陸の河川・沿岸部に広く同様の人たちが定住して居たと考えられ、やがて発展して青銅器時代を迎えたのか、それともInamgaon地域に青銅器時代以前の定住遺跡が無いというならば、古メールガルの人たちがこの遠距離を移住していたとなりやはり航海に馴染んでいた人たちでしょう。

また、インダス川の東のサラスヴァタ川沿いは、涸れ川跡の衛星写真分析から遺跡の存在が浮かび上がり発掘したところ大変多くの遺跡が確認され、あの古代インドの聖典である リグ・ヴェーダの見直しともなっています。

他方、その南方グジュラート地域では海に近いロータル遺跡(インダス文明最盛期4600年~3800年頃に機能していた城塞・市街地)に加え、数千年前とみられる海底遺跡が発見され海浜地域の発展を実証する点が注目されます。

(第2図)

 

ロータル – Wikipedia

これらは、インダス川沿いの文明として括られるものでは無く、南インドの貴重な黒胡椒、金などの交易を基礎とする文明を浮かび上がらせるものです。

インドと括ってしまうことも適切でなく、新しい現主流派の北インドとは異なるより古い先史時代の南インドのドラヴィダ族タミルの独自性、重要性を示しており、西方ペルシア湾のメソポタミアとの貿易はもとよりフェニキアとの貿易をも窺がわせるに十分な魅力と遺跡状況です。

更に、まだまだ沿海に海底遺跡があるとも言われていますが、南北インドの政治的な問題を克服して研究が進捗することを期待しています。ドラヴィダ・タミルは、世界最古の言語を話し近縁が見つからない日本語と最も近いとも言われておりその先史は特に我々にとって注目されます。

以上、従来は遺跡・文明に関しては発見容易な陸上勢力のものが主でその興亡が注目され史観が形成されてきましたが、今回述べましたように逐次発掘が進んで明らかになってきた河川沿いや沿海の航海貿易の勢力の動きにも注目する必要があるでしょう。

次に、フェニキアに関連するギリシャ・アレキサンダー大王(在位BC336-323年)に係る宝の島・楽園Taprobane – Taprobanaの話ですが、次回、お伝えすることといたします。

因みに欧米では、それはセイロン(スリランカ)だろうといわれてますが、スリランカの周りにはプトレミーの描く沢山の小島は有りません!

 

 

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