環太平洋海浜・舟行ルートRLPP説余話(1)―Macam-macam Hal yg zaman kuno daripada Jomon di Jepang

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Nara Akira http://www.sunda-wind.net

このホームページで長く追ってきました環太平洋海浜・舟行ルートRLPP説は、世界人類史的には、最初に新大陸アメリカにやってきたdatang ke Amerika のはどんな人たちが・どこからsiapa, dari mana かという問題について、ハーバードHarvard医科大チームが誇りますように明らかにしました。

それに加えて実は我々日本人にとってuntuk Jepang、縄文時代の更に前の時代の語られることの少ない日本祖人(仮称)asal manusia monusia modern di Jepangの状況について、ある程度のイメージを与えてくれる重要なことを含んでいます。

日本祖人については、まずアフリカでの現生人類の誕生からdari Afrika、当時は130-150mくらい海水面が低下していたために現れていた広大な海浜ルートをアジアの楽園Sundalandを経て日本にも展開したことを基礎にしています。

そして、伊豆Izu半島南(約55km)の黒曜石obsidianの原産地である神津島の32,000年前頃の物が、南関東で発見されるという既に知られていた日本祖人の航海、交易活動力kemampuanに対する驚きも世界人類史の流れの中で意味を持ち、理解もされます。

当時、台湾を経てlewat Taiwan沖縄からトカラ列島のルートで南九州には行けなかったのではという意見もありますので、陸伝いルートを主に描きますと下図です。 (最近の研究では、当時の植生の状況からトカラ列島でも人が住めたので行けただろうとみられてきています。)

勿論、日本海側ルートでの北上もあったrute pihak laut Jepang jugaことでしょう。

しかし、3万年を超える古い時代(海岸線は下図にほぼ同じ)の日本祖人については、南方の海の民の進出展開ルートとしてのいわゆる「黒潮ルート」rute Kuroshioは注目され、やがては結果としてアメリカの方へ向かった人たちも現れます。

現在は、海水面が130m以上上昇しており、また、木や竹、石器・骨角器等の文化でしたから遺跡、遺物の発見は困難susah menemukan bekas dan artefak です。

しかし神津島・南関東近辺の例から、少なくとも西・南九州―四国・中国地方―紀伊半島―椰子が流れ着く伊良湖岬から列島沿いの沿岸地域daerah pesisir sepanjang nusantaraに、日本祖人の狩猟採集(定着も?)・交易の生活活動が拡がっていたkegiatan kehidupan manusia adaことは容易に想像できます。

日本祖人asal manusia Jepangは、パンカルPangkal地域(豪・ニューギニアからから南インドにまで至る、現生人類の原初地域)から生活様式を受け継いできた海の民bangsa lautです。

そして、数千年に渡る日本列島における生活が定着し、日々の暮らしぶりkehidupanと宗教的な慣習budaya ritualの日本の原風景が形作られていたJepang dasarことは十分に認識されるべきことでしょう。

そういう状況で大変なことが起きました。それが、姶良カルデラの大噴火erupsiによる広域にわたる火山灰abu gn apiの降下の影響です。

実際に超大噴火が起きた南九州はもとより、火山灰が降り積もる影響terdampakは大変
なものです。そして更に噴火の影響による気温の低下suhu menurunがあり、地震津波
gempa bumi, Tsunamiもあったかもしれません。
私は、この影響から逃れて北へ、あるいは海に漕ぎ出してkeluar いったことがアメリカ
Amerikaに日本祖人で渡った人たちがいる原因ではないかと考えています。
そして、海の民から内陸川傍へke sungai dekatと生活を変えて適応adaptasiしていった
人たちもいたことと思います

いずれにしましても、この大噴火から15,000年前くらいまでの間に人々は真水の川の傍に住むtinggal dekat sungaiようになり、噴火の影響がおさまって新たに東アジア大陸や南方から来た人たちもいたのでしょう、人口も急速に増えていったbertambahnya pendudukようです。

特に、2万年前頃には沿海州から樺太経由lewat Karahutoで、北からも大型哺乳動物を追って多くの人が入ってきてmanusia datangいます。

この大噴火から1万数千年間は、海の民・日本祖人が「想定外」どころでない大噴火の被害を乗り越えて混乱を生き延びbertahan bingungan、そして新たな暮らし方への適応adaptasiをしていきました。

また、内陸の大型動物を狩猟し、寒冷地適応を果たした体と暮らし方を持った新たな人たちmanusia utara dinginも日本列島に進入してくるという激動の時代waktu punuh gejolakであったように思われます。

それが過ぎいよいよ縄文土器文化が始まりmulai zaman Jomon、日本祖人は縄文人と呼ばれることになります。縄の字が入っている沖縄ですが、海の民・日本祖人の独自の発展がしばらく続いたようです。

私は、この激動の時代を乗り越える中から縄文土器が生み出されたmuncul gerabah Jomonものと考えています。そして縄文土器は、あの岡本太郎さんをして「芸術は爆発だ。」と言わしめた世界的な傑作へとやがて発展していきます。

 深鉢形土器(火焔土器)、 縄文中期 新潟県長岡市関原町馬高遺跡出土

 – Wikipedia

勿論、煮炊き、物資保管など土器の実用的なことpragmatisは驚くほどです。

コロンブスがアメリカに到着する前、すなわち800年前の土器がカナダCanadaで掘り起こされましたが、その中身は種bijiで蒔いたら実がなったというアジアからアメリカへ渡った先人たちの驚きの智慧です。

以上、

今につながる人類のアフリカでの誕生から縄文土器の始まりまで、日本祖人と呼ぶべき私たちの祖先に関する、ルーツakar org Jepangに係る大まかな足取りの流れが掴めてきています。

そして、日本列島に縄文文明がしっかり定着してきた7,300年前頃、再び南九州沖で喜界カルデラ大噴火bencana besar Kikai erupsiが発生し、九州は壊滅的に、四国も大被害、火山灰は東北にまで及んだと言われています。

これをもまた乗り越えて先人の縄文人bangsa Jomonたちは、発展へと歩を進めたpengembanganわけですが、本当に頭が下がりlayak hormatます。

やはり、世界が見る日本人の原点asal karakteristik Jepangはこういう歴史の中にあるのだろうdipelihara dalam sejarah iniと考えます。

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