環太平洋海浜・舟行ルート説Teori RLPP(3)―Aborigin menyebarang ke Amerika Selatan masa Plestosin ? 

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Nara Akira http://www.sunda-wind.net

私たち現生人類の出アフリカ後の展開について、米ハーヴァードHarvard医大のアマゾン3部族のDNA分析で最も近いとなったアボリジニ等(赤丸塗りつぶし)とアボリジニに近い南インド人(赤丸)をいわば「元々の人々」ということで、下図のようにパンカル人Bangsa Pangkal(仮称)と認識しました。

そして、この中から北方に展開していくことになります。

それでは次に当時のそのパンカル人の地域の状況がどうであったかを考えますと、その中心のアジアの楽園地域は半島陸地ですがインド亜大陸と比較して分かりますように広大な地域でした。

基本的には世界が氷期の寒冷・乾燥であった中で、出アフリカ後に進出したこのパンカル地域は、温暖な暮らし易い気候と植生に恵まれていました。

動植物の種類と量も豊富で水産物も豊かな食料が豊富な地域でした。従って楽園地域surga di dalam Asiaと呼んでいます。

中でもバナナbanana栽培は極めて古く、おいしく食べれるよう改良を重ねたもの(遺伝育種学の大家 故中尾佐助)で農耕の始まりawal pertanianとされ、重要な食べ物です。

各国首脳が来た昨年のアジア・アフリカ会議の大統領招宴午餐のデザートが、ピサンゴレンpisang goreng(揚げバナナ)であったと知り納得です。

地域については、水利専門家のDhani Irwantoが楽園地域の主要な河川sungaiの状況を推測していますが、下図のとおり水は豊かです。帰省することを川上に帰るという人たちです。

今も基本的にスンダの人は、川そばに家々を造り背後に田畑が基本ですし、舟を持つ漁村は漁村ですが、マングローブ(熱帯・亜熱帯の湿地森林)mangroveでのワニの子獲りの写真を見たことがありますので、いわゆる魚、貝でないものも食料としていたでしょう。

そしていくつかの地域区分が生じ、暮らしぶりの特色も場所で異なり、多少の差異が出てきていたかもしれません。

次に、当時の人々orang Pangkalはどうだったかですが、出アフリカ後の人に近いだろうといわれているのがアンダマン諸島、マレー、比にいて今も暮らしている少数民族ネグリトNegrito人の人たちで下図の大円地域は少なくともそうであったと考えられています。

その大円地域のジャワでは、4万年前頃のワジャックWajak人がいますが、ネグリトNegrito人からはすでに変化しているbedaようです。

また、地域の北部ベトナムで1万年まえのハンチョウ人が発見されており、沖縄で発見されている2万年前頃の人骨に似ているといわれていますので、時代が新しくなれば変化も大きいようです。

4-3.5万年前頃の洞窟goa絵、人の手型がスラウェシSulawesi南部で確認されており、その精神性や芸術性は当時の人類の先端を行っているレベルtingkat tinggiです。また、石器類も当然使用され社会性ある集団であったと当地教科書に書かれています。

人について、各地から人が集まるバンドゥンにいてどうかと聞かれれば、パプアの学生さんがイメージに近いかなと思います。

以上、パンカルの地域と人の状況を考えてきましたが、恵まれた広大な地域であったにも拘わらず、北に向かったtersebar ke utaraのはそれでも暮らし易い海辺・川辺での人口が飽和penduduk jenuhanしたのでしょう。

もしかしたら火山の噴火・噴煙や地震津波といった災害bencanaが契機であったのかもしれません。今も噴煙での立ち入り制限や洪水災害のニュースをよく見ますので思い付きます。

次回は、いよいよこのパンカルの人々が北上した先の日本列島について考えます。

 

 

 

 

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