(東京・札幌五輪) 「最初のアメリカ人」、北部千島“祖・縄文人”系に着目!

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図右上17,000年以前に”米臨海”沿岸から昆布ハイウェイをアラスカ・アンカレジの方へフネで入って行きました。この沿岸ルートで浮上している青森~アンカレジのルートを検討します。

左下青森から3万数千年前に海峡を越えて北海道に渡り拡がった祖人・北海道Proto-Japanese Hokkaidoは、千島列島方向と樺太方向に北上を続けた事でしょう。A-1千島列島ルートとA-2オホーツク沿岸ルートは、やがてカムチャッカ半島南端か根元の肩口沿岸で合流します。図中央コマンドル諸島からアリュウシャン西端までは約420kmで、当時渡るのはムリ(列島最古遺跡も8,400年前で新しく、東方から)でしたでしょう。地域で注目の①カムチャッカ半島Ushki遺跡は、13,000年前頃、“米臨海”側の湖畔で、墓が道南の津軽海峡に面する知内町遺跡(2万年前)との類似が言われ興味深く、石器はアラスカと共通性が言われています。

次に②高度の海の民のアレウト族で、その遠洋操舟行動力は沿岸行動に留まるイヌイット・エスキモー族と違って技量は群を抜き、近世にやって来たロシア人を驚かせ、猟に活用するために北千島・カムチャッカに連れて来られたりしました。そして、それらと北海道の間で注目されるのが③北部千島の海の民“祖・縄文人”系の人々で、「北千島アイヌ」と称しているのは誤解の元であり、ユーラシア内陸を原郷とし鎌倉時代頃に登場するアイヌは有ったとしてもずっと遅れて来た上書きです。礼文島縄文女性(約4,000年前)同様に島に残された大昔の痕跡です。千島列島は、難所もある北の海、島間80km漕舟することも必要な「数百里の千島列島を昔から自由に行き来して来た」と豪語する海の民はアレウト族並みで、祖・縄文人の残された痕跡を感じさせるものです。堅穴住居に住み、土器石器・骨鏃矢を使い、北海道の人々と言葉を交わすことなくモノを置いてやり取りする「沈黙交易」をすることなどもアイヌとは別種の大昔からの祖・縄文人系を思わせ、言葉も人も今はもう融け消えて追えませんが「北千島アイヌ」と呼ぶのは誤解と考えます。

残念なのは明治時代に鳥居龍蔵が、せっかく北千島に調査に行きましたが「そういう種族の話もない」と否定したのが全く逆でした。現に、元島民で調査の助手を努めた者は、アイヌから「小人」と悪口を言われているのは気付いていて怒っていますし、島にいた人が 自分たちへの悪口噂を 知る訳も無くて不思議ありません。石器時代そのままともいえる品々も見ています。まして、21世紀のこれまでに分かった考古学の知見は当時は想像もできませんでした。そのまま今も 放置されているのが問題です。江戸の昔から幾つか関連資料もある 「北部千島の祖・縄文人系」の解明こそ、日本が世界の学界に果たすべき研究発掘の重点でしょう。膨大なアイヌ予算の充当を。子供に教え世界に発信を。

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