(新説)日本祖人が最初に米新大陸に渡ったのであろう⑤―”海の民”に光を

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万年の昔を探っていく場合、当然に遺跡・遺物が頼りになりますが、一番の問題は気候が今とは違ってましたのでそこを考慮することが必要であり、その端的な大きな違いは海岸線です。

下図左のように、氷河期には寒冷により海水となるべき水蒸気が南北極、ユーラシアや北米の北部、高山等で氷・積雪になったため、海水面が100m以上低下していました。

そしてその後温暖化して上昇に転じ、7千年前頃に概ね今の状態になったという訳です。

今仮に、海水面が100m上昇した場合は、宇都宮―前橋―八王子が海岸線となり、東京などは海没して遠くに房総諸島が残ります。

万年前を探ると言うことは、未来に仮に天変地異で海水面が100m上昇した場合、例えば前橋の海岸において、昔々あの海の向こうに東京という大きな街があったらしいよというような話です。

100mになる時間の長さのもたらす効果も凄いもので、2万年で100mということは、年間わずか5mm、一生で5cmですから、各人は気付かないうちに進みました。

それでも、2万年前頃からは3度とも言われる大きな急上昇による大洪水と陸地喪失があり、その語り伝えが世界の各地に今もあります。

さて、このことから逆に海水面を100m低く海の方に下げていきますと、海の傍の崖の前には砂浜が拡がり侵食も受けていないなだらかな丘であったでしょう。

今は海の下ですが、随分と拡がった沿岸に人々の暮らしがあったことは容易に想像でき、その暮らしぶりは残された近傍の遺跡から「海の民」のものであったことが分かります。

我が国の始まりは、南方起源で海を越えてやってきた人たちによる九州・沖縄から北上して北海道までの沿岸を水平に拡がっていったもの(水平拡散)と、途中の各地の沿岸から河川を山中に遡上していったもの(垂直拡散)から成り、かつ、日本列島の細長い多様な各地に適応し熟成発展させたものと言えます。

そして、ユーラシア東部近隣の西南と北から時にはかなり大量に人が入って来てサラダボールのように混在し、かつ交じり合っていることが特徴です。

歴史がずっと下って3千年前頃から入って来た農業・稲作の影響は極めて大きく、沿岸の暮らしを分かりにくくし、遡上した川岸山中の暮らしは狩猟暮らしとともに絶え絶えです。

海の民のことがよく見えないことは「士農工商」の語がよくその辺の事情を示しています。最近は海賊や水軍の語が本によく見られますが、「海部」の名(郡及び郷)の拡がりがあった時代の往時を感じさせてくれますし、沖縄の糸満海人も有名です。

さて、前回までお伝えした万年前の水平拡散で、北海道太平洋岸に続き千島、カムチャッカ、ベーリング海にまで至った現生人類、日本祖人ですが、上記のことからその痕跡を感じられるとすれば「海の民」についてでしょう。

さて前回説明した現生人類の米大陸進入の下図ベーリングルートですが、DNAはもはや殆どがβ系で、米国本土のネイティブ・インディアン、ベーリング両岸のエスキモーです。

わずかにα系の暮らしが残っていると感じさせるのはエスキモーに近いものの「海の民」であるアリューシャンのアレウト(アリュート)族やカナダ西海岸のハイダ族などです。因みにアイヌの人たちも主にβ系でしょう。

アレウト族の確かな遺跡は、鯨の形をした小島のアナングラ遺跡で9千年前をたどれる遺物が発掘されています

このα系の人たちの特徴は、何と言っても舟を操り、食物や生活用品を主に海で獲れる・採れる物に頼っていること、そして、魚介類を食してきた小柄で胴長短足なことです。

「海の民」の特徴である入れ墨、信ずる天・神とシャチを神のように畏れ崇めること、海や舟に関する様々な仕来りやタブーなどの生活における精神性です。

エスキモーのうち沿岸で暮らすの人たちも海辺の動植物に頼りますが、舟は陸地が見える近い所でしか行動せず、極めて慎重であると評される本来のβ系です。

一方、アレウト人は、小舟カヤックに彼らの体を合わせたかのようと評される小柄で背筋を伸ばし、陸ではガニ股歩きするのは、舟に乗った長い年月の伝統の作り上げた賜物です。舟との関係は陸で言えば正に人馬一体です。

(写真2枚とも アリュート民族 ウィリアム・ラフリンから)

6・7歳になれば綱付けられてカヤックに乗り始め、20歳前には既に立派に一人で乗れるようになります。他に崖の上の海鳥の卵取りや動物狩りも。

風・潮の流れ・獲物などについての知識を学び、操舟と投槍器を使う狩りを実地で身につけますが、この膨大な量のknow-howの全てが生死に直結する厳しいものです。

そして、沖に出て大物を仕留めて帰って来て誇れる男が尊敬される社会です。日本本土にも残ってますが、同様に鍛えられた沖縄の糸満漁師の社会が有名で様相が近いことが「海の民」の流れが残る痕跡と思います。

全般に沖縄の遺跡では、酸性土壌の本土ではなかなか見つからない3~2万年前の人骨まで発見されていますが、意外に石器の出土が少ないことで知られています。私は、早い時代に骨器を多用した正に「海の民」の証と考えており、いずれにしろ糸満の人たちがそういう直系だろうと。

シベリア内陸の大型哺乳動物を狩猟するβ族ではない、全く異なる膨大な伝統のknow-howを要する海人α族の流れに特に注目する所以です。そして、無理なく九州・沖縄からアリューシャン、北米大陸西岸の海洋族に繋がると考えるからです。

よく分からないため、よくカムチャッカの半ばから線が引かれて始まるエスキモー、アレウトの北米進入ですが、少なくともアレウトは、北海道から北上した「海の民」である日本祖人系、少なくとも伝統を受け継ぐその暮らし系として良いと考えます。

さて、近しいエスキモーの人たちが短命なのにアレウトは長生きし、十数名を基礎とする古くからのバンド社会で、農耕民から見たら不毛の地において豊かな海産物を得て欧州人にバカンスと言われる自然の中の暮らしです。

近くのカムチャッカ傍のコマンドル諸島では、上陸して暮らした露人が餓死全滅した記録が残っていますが。

ラッコの毛皮に群がった露人船が来て、アレウトの住む海岸が容易に砲撃されて大被害を受け、無理やり狩りを強制されましたが、他族と違って内陸に逃げて暮らそうとしない、暮らせない海の民の人たちでした。

そして、重要な小舟カヤック造りにも特色があります。アリューシャンの島々ではいい木が得られない所ですので、鯨・セイウチの骨や流れ着く流木を骨組みとし、小舟カヤックを3-4頭の海獣の皮で覆います。

これに対し、凍傷に繋がる水を避ける(冬の海中30分で死)ため、女たちが鯨のヒゲや動物の腱などから作った糸で外科医の手術に例えられる比類ない緻密高度な心のこもった縫製によって男たちを守り、成果を得て無事で帰るのを待ちます。

この造舟のための膨大なknow-howの詰まった伝統のカヤック作りに数ケ月をかけ、しっかり仕上げるのも「海の民」らしいことです。

そして、衣・食・住とその暮らしぶりにも「海の民」なりの違いがあることは言うまでもありません。どう考えても人類史の早い古い時代においては、内陸の狩猟民族と島や沿岸の「海の民」は人も暮らしぶりも全く違っていたと思います。

実は明治時代の日本人類学の曙の頃、江戸時代から語り継がれアイヌの口碑にもある”先住民コロボックル”がアイヌに追われ北海道から千島の方へ去ったという説を巡る熱い存否論争がありました。

日本人類学の祖、坪井正五郎東大教授が実在説を唱えましたが、確たる遺跡・遺物は見つからず否定的な論が優勢となり、教授が亡くなって自然に消滅しています。

が、そのコロボックルが、「小柄」で「魚を獲るに従事」する人たちだったというのでこのサイトが注目するのは十分ご理解いただけるでしょう。古い時代の「海の民」系、日本祖人系としてです。

以下、次回に続きます。

(了)

 

 

 

 

 

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