日本祖人は、米新大陸に渡ったのか?①

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昨年、ハーバードHarvard医科大チームにより、南米アマゾン3部族Suku AmazonのDNAは古いもので、しかも近隣南米はおろか北米やシベリアにも見当たらず、豪アボリジニAborigine、パプアニューギニアPapua、アンダマンAndaman諸島の人々と近いという驚きの発表がなされました。

どうして?と記者に問われた先生は、太平洋を渡って植民地化colonizeしたんだろうか?とニガ笑いです。そして、今や途中の経路上の人々は消滅してしまっているのだろうと答えています。

さて、赤道地域を直進して南米に至る”colonize”化は、アフリカで誕生した我々の祖先である現生人類の出アフリカ後の足取りを知る人類学・考古学者等からすれば、人類が太平洋に漕ぎ出したのはせいぜいのところ3-4千年前であり、ゼロが一つ違う全く新しいことで認められないです。

後ほど細部説明しますが、私は、まず最初に東南アジア・パンカル地域を北上した色黒の南方型の子孫が日本列島経由の環太平洋ルートで米新大陸沿岸部に達して入り、北・南米大陸の太平洋岸を南下して南米に至ったものとみます。

そして、大型哺乳動物を狩猟し、寒冷降雪地への適応を果たしたDNAの狩りと闘いに強い北方適応型が、遅れて(もしかしたら前後あるいは混在)シベリアからアラスカへと入って来て沿岸部に先着していた南方型は攻められて散りじりに消えていき、その沿岸の生活の痕跡も海面上昇で消えたものと考えています。僅かに、広大な南米アマゾンの人里離れた所に逃げ隠れ生き残っていたという訳です。

リオ北で発見されたパンカル地域やアフリカ人に近いと言われる1.3万年前頃の南方型の女性人骨「ルシア」、チリの14000年前頃のモンテ・ヴェルデ遺跡では、北米とは異なる様式の古い石器類、海藻を食し炉もある生活痕が発見されていることなどや岩絵を描き主に淡水魚を食したアマゾン川域遺跡など、南米に点在する幾つかの痕跡が繋がって線になってきて元々が海の民の太平洋岸南下を示しています。

そして前述の考えに私が至った記者が気づかない注目すべき第2の点は、アフリカを出て東進した南方型の子孫がそのまま南米にまで行っているということで、北米のNativeのような北方適応型(アジア北方内陸部が原型)ではない人たちというものです。

Nativeアメリカンの北米と南米、シベリアや今の東アジア人との関係、そして北・南米大陸の各地で発見されている遺跡の分析において、このDNAの南方型と北方適応型を意識しないことが発見遺跡の分析や議論の混迷の元にあると私は考えています。

さて翻って、パンカル地域の人々が太平洋を赤道沿いに直進して南米に渡って行ったのではないとなれば、北回りか南回りのルートとなりますが南回りの南極の方は全く取り付く島もなく何の遺跡上の裏付けもありませんから北回りとなり、俄かに日本列島が注目されます。

このサイトで既に述べましたとおり、確かに日本列島には4万年前頃から、南方型の子孫が西・南から進出して北上し拡がっていきました。

2万年前頃、マンモスを追って北方適応型の人たちが北・西から入って来る前に北海道太平洋岸にまで至っていますので、3万年前頃の北海道太平洋岸からその後も南方型のまま新大陸に入っていればぴったり辻褄は合いますが、問題は、米新大陸に渡り得たのか?です。調べ得る痕跡は無いに等しいですが。

Nativeインディアンは、2~1.5万年前頃にシベリアから当時の氷河期の海水面低下により現れていたベーリング地峡を越え、下図のカナダ内陸の氷床の隙間の無氷回廊ルートを南下して北米に入ったという従来の定説が、実は最近のアメリカにおける研究で否定されました。

2つの湖の氷の層の環境分析から、約1500kmの無氷回廊を人びとが通過し得たのは、温暖化した12600年前頃以降のことでそれ以前は痕跡も無く無理であるという結果です。

他方、このことによって既に北米で発見されている14000年前頃の遺跡を説明できなくなり、舟も利用する西側の太平洋岸ルートであろうということになって、俄かに注目されることとなりました。

それまで相手にされなかった太平洋岸ルートということになりますと、米国に至れば南下して南米に至ることは大きな問題はありませんし、学者を驚かしたいいスピードで南端にまで至っていることも、沿岸を舟を使えばよく理解できますので、焦点は当時の北太平洋、ベーリング海地域を人々が渡れたのかということになります。

そして下図の地域を見ますと、北海道以降のルートで2万年前頃の最終氷期最寒冷LGM期以前の渡米進入路として、ベーリング海北側の地峡沿いA、アリューシャン列島沿いB、北太平洋の海流に乗って直接渡るCというルートが一応考えられます。

先ごろ、東北大震災で八戸の神社鳥居の笠木が米オレゴン州の西海岸に流れ着いた(Cルート)と話題になりましたが、無人の野のアメリカ大陸で人が増えて定着するには、事故や病気で人が失われる、また、婚姻と正常な遺伝による部族の発展を考えると少なくとも200人くらいの母数が必要と見られています。

Cルートは、渡海が実行可能と言われ、かつ、最も暖かいルートですが、1舟2舟はともかく前述の母数を考えますと丸木舟の時代に多数の人々が見通しをもって計画的に漕ぎ出して行ったという可能性は低いと言わざるを得ないでしょう。

仮にあったとすれば、姶良大噴火(2.9万年前)後、シャーマンに率いられた難を逃れる多数の人々が日が昇る海の彼方の神の地を目指して漕ぎ出し、その生き残りの人々が到達したとでもいうことでしょうか。

さて、今から直前の氷河期は7-1万年前頃のことで、寒い中でも寒暖の波はあり、最も寒かった2万年前頃の最寒冷LGM期における状況は下図の通りで、広範囲の沿岸・島嶼部(白部)では、寒冷なステップツンドラの草原でマンモス、ステップバイソンなどがいる状況だったとみられています。

最初に南方型が新大陸に進出して南下し始めた注目の時期であるLGMの前の2.5万年前頃は、少し寒さが緩和されていたために海水面も図より3-40mは上昇していました。

カムチャッカ半島~ベーリング海北側沿岸ルートAは、最も寒かったでしょう。カムチャッカ半島~アリューシャン列島ルートBは総じて曇りがちで霧が深いと言われ、現在の米露国境のアッツ島とコマンドル諸島間は潮流が激しく、その離隔も数百kmあります。

いずれのルートにしてもよく見ますと、南下して行くアラスカ湾の一部(赤丸地域)は氷床が海辺にまで来ています。とても人は行動できなかったのでしょうか?

アラスカ湾赤丸地域を地図で見ますと下図の通りです。米国アラスカとカナダが国境を接しており、カナダのブリティッシュコロンビア州地域とアラスカ湾の間にも米国アラスカ州の領土が細長く伸びています。

当時の海水面は下地図よりも約90m位低く、入り組んだ海岸線地域の陸地部を氷床が覆っていたことでしょう。アラスカと言えば寒いイメージですが、旅行書によるとアンカレッジの夏は思いのほか暑く、半袖でいいそうです。

そして、この地域で生活するイヌイット(生肉を食べる人の意ではエスキモー)の人たちは、氷壁の前でも漁をする人たちのようで、特にアリュート族(アリューシャン列島人)は、舟造りや操舟、漁に長け長距離の輸送航海に慣れた正に優れ者の北の海の民だそうです。

次回は、当時の千島・カムチャッカ・ベーリング海域・アラスカの人々の存在に関して思いを巡らせ探ります(近代になって毛皮を求めに来た露人に海の民アリュート族がほぼ壊滅されましたので、安倍首相が、露プーチンさんに騙されませんようにと祈りつつ)。

(了)

 

 

 

 

 

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